会報第19号 昭和61年3月15日
 ■ 巻 頭 言

虎視牛歩                     福岡市薬剤師会 会長 冨永 泰資

 本年も菩提寺和尚より本山老僧の色紙を頂く。寅歳にちなんで大虎が餌を睨む姿に「虎視牛歩」との讃あり。眼光の鋭さ、脚どりの確かさに強い感動を受ける。昨年は「帰家穏坐」に坐牛の図であり、体を休めエネルギーを貯え明目にそなえる年、焦らず機を待つ年だとおぼえました。本年は如何に、虎は千里の先の餌にも全神経を集中し凝視し、確かな足どりで接近するといわれる。

 昭和還歴を迎えた本年に全く適した寅歳ではないか。昨年は業界にも多くの変化、規制が作られ必ずしも良き年ではなかったと思われます。然し年末の第103国会に於ける医療法の改正に際し、薬剤師念願であった医療の中に於ける薬剤師の位置付けが確立されたことである。このことは今後の薬剤師、薬局に責任と誇りを自覚させた年だと考えられる。分業を叫び続けて百年、その間、法はその職能を認めても社会は認めず、常に医療の片隅否医療の枠外とも見られる所に押つけられて来た。

 しかし今年からは医療の中に医師、歯科医師と同列に明記され医療の表に姿を見せた。このことは百年の願望であり、薬剤師の等しく求めて来た所である。目的は千里の彼方であろうがたしかに見えて来た。今後は之を確実に手中に押えることにある。高本日薬会長の新年の挨拶の中にも三点こ亘って手中におさめる術を記されている。日時と努力と工夫が必要であることは論を待たない。活字の上でのみ認められるか、国民に認められるか。国民に認められてこそ本当の目的達成と云えると思う。道は遠く険しい筈だ。然し寅歳の本年をその第一年とし目的を見失しなうことなく確と見つめ、確かな足どりで歩一歩近づき進んで行きたい。

 「虎視牛歩」本年は正に薬剤師、薬剤師会にはその第一年にふさわしい年である。薬剤師の職能を再度見直し精進しようではありませんか。日薬はその具体的方策を一刻も早く作成し、その実現のスピードアップに努力されたい。目薬の基本を百年に亘り支えて未だ薬剤師のために薬剤師が協力し、実行出来る方策の早急な策定を希望する。

 幸に現在与野党に在籍薬剤師が数人おられる。この機を逃がしてはならない。法治国は法第一である。日薬は石井先生を中心とした薬剤師グループ議員をフルに利用し、 遠き目標に一日も早く到達するよう早急に対処すべきである。この新年に当って期待すると共に、改めて吾々自身努力を誓うものであります。虎視牛歩会員諸兄よ確かな足どりで目標に向おうではありませんか。


医療の中の薬剤師職能              福岡市薬剤師会 専務理事 堀江 秀男

 去る2月20日、21日の日薬通常代議員会に出席致しましたので、その概況と特に医療法一部改正に併う今後の対応にていて御報告申し上げます。すでにご承知の通り日薬望月専務辞任のため、代議員会の様相も緊迫感の中に開会されました。高木日薬会長はじめ各副会長、常務が、そのフォローを含めて熱意ある言動が見受けられ総じて活気の満ちた代議員会であったと思います。

 日薬高木会長は冒頭演述で(1)今回の医療法改正に於て薬局、薬剤師、薬事が銘記され、今後の対応が重要である(2)時悪しく健食問題で薬剤師が世に問われたことは遺感であり姿勢を正しくして欲しいとの2点を強調、指適された。

 今回の医療法における薬局、薬剤師、薬事とは保険調剤に関るものを差しているが、日薬としては薬局の区別はしておらず、将来の医療法改正までに一般薬局の地域医療分野における医療内容の充実適正を計り全ての薬局を医療法の枠の中に入れる考えである。厚生省は当初日薬は自から薬局の二分化を実施するものと感違いした様であるが、薬局は法の基で薬局であり差異のない考えを表明した上で今回の医療法の改正を見たのである。

 今回の快挙は一つに石井道子を中心に沼川、網岡、他の薬剤師議員先生方の党派を超えたお力添えにより勝ち得たものと思います。

 さて総枠で吾々薬剤師の医療におけるポストが公認されたわけですが、今後この権利に併う義務が重大であることは申すに及びません。法と国民、社会から認知されて始めて薬剤師の信頼と評価が得られ職能の確立が約束され、経済的にもそれなりの要求が出来るものと思うのであります。

 厚生省はすでに医療計画策定指針を発表しこれに対する吾々薬剤師会の対応策が次の様に日薬より通知されております。


思い出すこと                     南支部野間部会 大黒 隆男

 昭和3年、大阪薬専を卒業した私は、晝は大阪の内務省衛生試験所に見習技手として、衛生試験や薬品検査試験の見習に通い、夕方からは大阪市内のある薬局に小売の見習をさせてもらった。これは今思いだしてもなつかしい思い出の一つである。

 当時の薬局は特定の所を除いては殆んど年中無休であったから、日曜日は朝から小売の見習に終日を過した。天王寺の近くの小売商店街であったので、毎夜1時頃まで店をあけ、それから歩いて10分位の住宅街にある薬局の主人の家に帰るのであるが、その途中に「うどんや風一夜ぐすり」のポスターを貼ったうどんやがあって、そこで熱いうどんを喰ぺで帰るのも楽しみの一つであった。

 この年の何月であったか忘れたが、大阪市内の今宮えびす神社の前にあった薬局(薬局名は失念、経営者は木下某といったとおぼろげな記憶がある)で、樋屋奇唐丸3割引、健胃固腸丸、ロート目薬、大学目薬、七ふくひえくすり、などなど。大阪近辺でよく売れていた売薬(当時は家庭薬はこうよばれていた)の安売りのビラがまかれ、市内の薬業界は大騒ぎとなった。あるいは今まででも大っぴらではなくこっそり値引していた所はあったかもしれないが、ビラまでまいて大々的に濫売をはじめたのは、これがはじめてで、恐らく濫売の嚆矢と言える。

 阪神、阪急沿線の人が、定価5円の奇応丸を買うと、往復の電車賃とデパートの食堂で晝食をたべてまだ余ったと勘定する話もよく聞いたが、事実神戸あたりから大阪へ売薬を買いにくる人は少なくなかったのである。因みに当時はかけうどん1杯が5銭であった事を考えると、値引額の1円50銭は大金であった。

 斯うして大阪の小売業界は濫売の渦に巻きこまれていったが、それでも勘定高い当時の大阪人は決して、そろばんをはずした安売りはしなかったのである。

 この濫売が燎原の火のように拡ってゆく最中に、ある日、主人が留守の薬局に二人連れの男がきて、「樋屋奇応丸が特別に安くわけられるがいりまへんか」と言う。いくらにしてくれるかと問うと、定価の4.5掛(55%引)と言ったと記憶している。と言うのは問屋からの仕人れは当時5.5掛か6掛であったから確かに安くはあった。併し仕入はすべて主人がしていたので伝えておくと言ったら、二人は住所も名前も言わずに帰った。

 それから1ヵ月もたたぬうちに、数十軒の小売店が、この奇応丸を仕入れたということで、大阪府の薬務課に呼びだされたとの情報が入ってきた。この奇応丸は、包装は寸分たがわず、内容は泥に金色をつけた代物であったことが、薬務課の調査でわかったのだと言う(この頃の奇応丸は金粒だけであった)乳児や幼児に泥をのませたわけである。

 幸に新聞には詳細がでなかったが、事情を知る者はショックであった。これと前後してワラの粉末に着色して作られた金鳥蚊取線香が市中に出廻り、これには私が厄介になった薬局もひっかかって、薬務課に呼びだされたことを覚えている。

 生半可な知識だけで、売ることのみに汲はとして、価格だけで勝負しようとする傾向の強い現在の時代に、前述のような不祥事が起り得ないと保証できるだろうか……。

 若し不祥事が起った時、薬局薬店の信用はどうしてとり戻せるのか?

 情報化時代には些細なことでも覆いかくすことはできない。それは西田式事件でも明らかである。西田式事件ですら関係のない薬局薬店が疑いの目でみられているのである。

 年寄りの取越苦労と笑う勿れ。


薬剤師会に入会して16年                 月限部会 木原 三千代

 呉服町に薬剤師会があった頃です。頭上に乾してある洗濯物の下をくぐって行った路地の奥。こんな場所に、本当に薬剤師会があるのかしらと、不安な思いで開局の申請書を出しに行ったのが、昭和45年で、早いもので16年も経ってしまいました。市薬の事務の肥高さんから、今でも「先生は、赤ちゃんを抱っこしてみえましたものね。」と言われますが、その娘も高校1年生になりました。

 開局の申請をした時に、薬剤師会に入って下さいと言われ、何が何だか良く解からないままに入会しました。そしたら3月になって会費が未納になっていますので払って下さいと催促の電話がかかってきてびっくりしました。会費がいるなんて全然知らなかったんです。

 県薬が住吉に移ってきて、市薬が同居している時なんか、県薬も市薬も解からず、事務所に入って、一番近くに座っている人に「あのー…。」と言うものですから、「先生は市薬だからあちらですよ」と何度も言われ、この建物の中には、県薬と市薬というのがあるんだという事がやっと解かったくらいでした。

 薬剤節会は、会費が高いわりには、薬局の開局許可証の更新の時だけしか行く事は無いんじゃないかと思っていましたが、市薬の中に各区毎の支部制度が創られ、博多支部月隈部会となってからは、薬剤師会が大変身近かなものと思えるようになりました。

 月隈部会は、一昨年東平尾薬局さんが入会される時には、植野先生の御自宅で、先生の手作りの“てっちり”を御馳走になったりする等、本当に楽しい部会だと思っています。この月隈地区にはまだ未入会の方もありますが、早く入会されると良いのに、残念でなりません。

 薬剤師会に入って、いろんな活動に参加する事によってたくさんの先生方とお会いしました。急患センターに出勤させていただく事では、勤務部会の先生方とお話する機会を。学校薬剤師会に参加させていただいては、学校の養護の先生や、北九州や筑後地区の先生方とお会いする機会が得られました。学校の同窓会や住居地域の組織とは又違って、同じ悩みや、楽しさをわかちあえる気安さがあるように思います。

 この春、長男の大学受験に際し「僕は、薬学部より教育学部の方に行きたい」と言われた時「薬学部に入っても教職課程をとれば先生にはなれるよ」と言ってしまって、子供から「お母さんはやっぱり薬局を継いで欲しいとやね」と言われてしまいました。

 こんな小さな薬局でも、16年間も頑張ってきたんですもの。後継者が無くて閉店だなんて、やはりさびしいと思います。

 私としては、胸を張って(ちっちゃいですが…)薬剤師になって良かったと言えますもの。


医薬分業雑感                         副会長 清水 水一郎

 「今日のおくすりは、いつもお医者さんでもらっているのと同じ薬なのに、少し高いようですけど、どうしてですか」患者さんからこのような質問をうけたことはありませんか。保険薬局なら必ずうけたことのある質問だと思います。私ども薬剤師にとっては大変にきびしい質問ですね。

 実際、患者さんが医師の所で処方箋を書いてもらい、わざわざ保険薬局まで来て投薬をうけると、医師の所で直接投薬をうけるより、患者の現金支払い(一部負担金)が高くつくのです。この事を知らない薬剤師はいないと思いますが、これこそ医薬分業推進の大きな阻害要因のひとつではないでしょうか。患者さんにわざわざ薬局まで来てもらう以上は、負担金は安いか、少くとも同じでなければ患者さんは納得できないと思います。薬剤師がいくら説明しても、素人の患者さんに同じ薬をもらうのに高くつくということを納得していただくのは、なかなかむずかしいことのようです。

 これでは患者さんは医師直接の投薬を希望するようになるし、医師も患者が薬局で高く薬代を払わなければならないならば、自分の患者が減るのではないかと心配し、処方箋の発行をしぶるのは至極当然のことです。

 社会の一つの習慣を変えるということは大変にむずかしい事です。変えるについては正当な理由と、それによる大きなメリットがなければなりません。

 勿論メリットは、薬の有効性・安全性がより高くなるということですけど、薬剤師ならば理解できますが、患者さんにとってのメリットは、より親切で、より安いということが優先するのではないかと思います。

 同じ薬をもらうのに、患者の現金支払いが高くつくということは、医薬分業を普遍的に発展さすうえでの大きな阻害要因です。この患者負担が高くつくのを除去しなければ、末端薬局までの分業の浸透はむずかしいのではないでしょうか。歴史的にみても、大衆の支持のない運動は成功したことがありません。

 今般の医療法の改正にあたっては大きな成果をあげた日薬です。今度はこの薬剤費の患者負担金の格差是正に全力をあげてもらい度いものです。

 方法はいくつか考えられますが、すでに日薬に四国ブロック薬剤師会より申し入れがなされている「調剤に係る技術科を全額保険負担にする」という方法が一番いヽのではないですか。薬歴管理科の問題などより、分業進展のためには最優先して取りあげるべきことではないかと思います。

 福岡市薬としても、少し考えてみ度いものですね。御意見をお聞かせ下されば幸いです。


支部会員へ                       理事・西支部長 栗田 邦彦

 2月もはや半ばをすぎ先日の党友集めと関口後援会集めで万事終了、支部長の任期を無事終るにあたり、西支部の市薬会員諸兄に色々と注文をつけたいと思います。

1.部会長さんには大変協力していただき有難うございました。特に人数の多い部会では人一倍の御苦労でしたでしょう。市薬の方針の徹底には下部組織がしっかりしないとむつかしい。その為には部会長さんも、部会でまわりもち順番制でなく自ら名乗り出てほしいと、先日冨永会長が言われたが、もっともな事だと思います。

2.市薬代議員にしても全く同様で自ら名乗り出てほしい。そして総会が終れば資料を待ち帰り自らの部会に回覧してほしい。

3.市薬の諸々の行事に積極的に参加してほしい。博多湾の周遊、ソフトボール、ボーリング大会等、組織委員はその都度人数集めに苦労している。

4.学術研究会に出てほしい。来るべき分業にそなえて、日薬雑誌等を読んで勉強するのもよいが、次々と出る新薬にも一応目を通し、研修会に出て新しい知識を吸収せねばならないと思います。

5.過去2年間西区保健所に於ける西区市民健康フェアーは、地元部会の先生方と竹尾啓二先生の御努力により一応成功しました。今後は西区と早良・城南区の2ケ所で開催される事は必至であります。この際に福岡市薬剤師会の存在を示す為に会員各位の協力をお願いします。

 最後になりましたが二度の健康フェアーに於ける竹尾啓二先生。天神地下街に出動の行実先生、南島先生、波多江先生。組織委員として2年間頑張った高木先生。社保委員として毎月出勤の藤田隆先生。副支部長、会計、社保委員として一人五役もやっていだいた野方の占部先生には深甚の感謝の意を表します。

 調剤専門薬局としての仕事だけでなく、色々の機会をとらえ各部会に出向いて若い先生方と面識の機会が持てたのが、この2年間の収穫でした。年末の分業対策アンケートにも、当西支部で8名位の先生が面分業可能と書いてありました。市薬いや日薬の運動方針の第一位である面分業へ、会員一丸となって進んで行く61年であってほしいと希望して居ります。


演歌の心ーそのメロディー                西支部姪浜部会 藤原 良春

 酒の席でカラオケはつきものである。今では歌わない人の方が珍しい程になった。カラオケ文化の到来とでもいうべきであろうか…その中で歌われている歌であるが、30代以上の人でいえばおそらく9割が演歌であろう。何故日本人は演歌がこれ程好きなのか、それは演歌のメロディーが日本人の心に訴えるものであり、肌でじかに感じるものとなっているからである。

 更にいえば日本人の血の中に流れているメロディーということも出来る。この日本人の心の歌としてのメロディーを探り当てたのが中山晋平で、演歌のルーツというべき曲は、大正12年に出未た「船頭小歌」・「波浮の港」である。尚、日本で流行歌としてレコード化された第1号は昭和3年で、「波浮の港」であった。これが昭和流行歌の幕開けで、晋平ぶしは「東京行進曲」そして「東京音頭」と花開いて行くのである。

 ところで、晋平ぶしといわれるその本質は、ヨナ抜き短音階にあるが、ヨナ抜きというのは、ドレミファソラシドの7つの音からファ(4)とシ(7)を除いた5つの音だけで構成した曲のことをいう。簡単にいえば半音の出てこない歌なので「C調」のハーモニカでも吹けるし、音痴が蛮声をはりあげて歌っても大して聴きづらくないように出来ているのである。そしてこの“ヨナ抜き短音階”は古賀政男によって受けつがれ、都会的な雰囲気を持った古賀メロディーとして流れて行く。古賀政男のデビューは昭和6年「影を慕いて」であった。

 私の育った世代は音楽といえば唱歌である。日本の音楽教育は西洋音楽の導入で始っている。従って唱歌も外国の曲の方が多い。又西洋音楽の主流はメジャー(長音階・長調)の曲で、日本人からすれば異質のものである。更に悪いことには、教科書の楽譜通り高いキーのまま歌わせるので、多くの人が高音部の声が出なくて苦しんでいた。

 音楽とは音を楽しむと書くが、学校での音楽は音に苦しんだ経験の方が多い。それが音楽嫌い、歌うのが苦手という結果につながった原因の一つでもある。カラオケの爆発的普及は、キーの高低を調節して、誰にでも歌えるような音域にしたところにある。

 先に述べたように、日本人の体質にはマイナー(短音階・短調)の曲の方が合っている。マイナーの曲のイメージはウエットで、悲しい、寂しい、わびしい、空しい、苦しい、暗いといったものであろうか。演歌はその殆んどがマイナーの曲なのである。従って曲想は叙情的、情緒的、無情的なものになり、酒、涙、情、別れ、悲恋、そしてなにわ節の世界が歌われるのである。これが演歌の心である。

 最近は少くなったが軍歌ブームというのがあった。軍歌は戦争を知っている世代、知らない世代とその曲に対する思いは様々であっても永く歌われ続けている。何故か、それは俗に軍歌といわれ流行した歌が演歌であったからである。“若い血潮の予科練”ので始まる「若鷺の歌」、“ああ あの顔であの声で”で始まる「暁に祈る」、両方とも古関裕而の曲であるが、哀調を帯びたそのもの悲しいメロディーは演歌そのものである。格調高い名曲といえよう。

 流行歌嫌いの高木東六が作った「空の神兵」というシャレタ曲もあるが、主流は日露戦争時代の「戦友」の流れを引くマイナーのメロディーである。

 若鷺の歌で古関裕而は、土浦海軍航空隊での発表会の時メジャーとマイナーの二つのメロディーを用意したが、圧倒的支持を受けたのは現存するマイナーのメロディーであった。又、「同期の桜(二輪の桜)」、「ダンチョネ節(民謡)」、「軍隊小唄(ほんとにほんとに御苦労ね)」その他は兵隊ソングであり、一般にも流行したが皆替唄である。( )内は元唄。

 従って、戦時中このような歌がレコード化されたことはない。兵隊ソングが物語るのは兵隊や民衆の心の叫びで、それは厭戦、反戦の歌であり亡国の挽歌であった。そこに明るいイメージのメジャーの曲が生れる余地はない。

 演歌の歴史は、正に昭和の時代史で、戦後も多数の名曲が生れている。曲名を挙げるのは限りがないので省略する。

 ところで、名曲とは思わないが最近の歌で、「奥飛騨慕情」や「さざんかの宿」のメロディーは実に古い。しかし大ヒットした。それは演歌の本流であるメロディーにある。とすれば古いも新しいもない。演歌は歌いやすいメロディーであってこそ大衆の支持を受けるのである。

 昨年は演歌不作の年であった。今年はどのような演歌が生れるか楽しみである。


1ドル二百円                           副会長 冨永 f蔵

 一昨冬ニューヨークに行った時、1ドルの値打は大体百円と見做せばよかった。 10ドルの品物は日本円千円だと考えれば買えると云う実感だった。併し当時1ドル235円だったので、2、350円の支払で随分高価である。

 妙な事で覚えているのだが子供の頃1ドル2円だった。1円で酒1升、中位の干鮭1尾が買えたので1円の値打は今の千円ではきかないだろう。当時は万事銭単位で10銭札を持ってお神酒を買いに行っていた事を憶えている。同じ1ドル200円と云っても、国の力の今昔を考えさせられる事である。

 先月タイにも日本の明治村の様な処があると言うのでバンコックに行った時、日本のドリンクで喉の乾きを潤した。日本円にして130円、日本と同一値段である。海外で同一値段で飲めるとは有難い様ではあるけれども、現地の人には大変高いものだった。偶然の事たったけれども、コカコーラを現地の友人にたのんだら、現地の人と同様、平素の平値だった。こんな例はよくある。

 中国では外国人の為に各地に友誼商店がある。外国でも珍らしい外国人専用の紙幣まであって、どこででも使える。併し市中で買物すると、市民が使っている中国人民幣が釣銭となって返って来る。これは前記商店でも、飛行機、汽車、タクシー等公的施設では使えない。而も外国人に対しては高いのである。裕福な外国人に対する観先税の様なものだろうか。

 果して私共は裕福なのか。日本は経済大国で外貨が、出超が毎年増えてゆくお金持ちの国だと、旅行先でよく云われるが実感などサラサラない。併し先進国の人々は低所得層があるのは勿論だけど、色々の規制の下とはいえ、裕々と生活している様に見える。私共が買物に出かけても開店時刻はおそいし、昼休みは長い、閉店時刻は早い。色々の条件は違うけれども私共の生活とは大分違う。経済大国で働らき過ぎと誤認して、そのまま真似したら、早速明日からでも食えなくなるだろう。零細企業の私共の働らく時間は、今後ますます増加せざるを得ないのではないか。精神的豊かさのみでは食って行けないのではないか。

 薬専を出て50余年、在学中「薬学の終極の目的は調剤だ」と教えられた。研究室や病院薬局勤務をやめて開局したら、医師の処方箋には滅多にお目にかヽれなくなり、自家製剤をして目的の近くをウロウロして何年になるだろう。ようやく数年前から月に教十枚の処方箋が来る様になった。これも業界の処方箋発行促進運動と相挨って保険制度の中で、医療費や医師の経済上の理由によるものが大で、薬剤師の職能は二の次である様に思う。

 併し今後政治の力で医療法の中に薬剤師の名がつらねられ、こんな喜ばしい事はない。今後は職能を第一義として、優秀な職能者として大いに活動出来る部門がひろがった事となる。果して老健法を含めてどんな活動を求められ、又自主的に開拓出来るであろうか。保険調剤を基盤として社会的視野に立って活動を拡めて行くべきであろうが、その受入態勢の確立整備は大変なことだろう。

 今後の事は日本薬剤師会で、又地域の細目は県市薬で話し合われる事と思うけれども、受皿の基本は部会であり、会員である。益々政治力と各会員の自覚、研殲が要求される事となる。

 それにしても病薬の先生方の地位も追々と向上してゆ<様で同慶に堪えない。が根本的な面‐有資格者が責任をもって調剤しているのに一医師の調剤権の代行にすぎない/と実感したのは、もう30余年前の事だが、戦後は廃棄の届も院長名でしていた様に思う。そんな馬鹿なと憤慨しながら病院薬局を辞してもう永い。法律の改正は難しい。併し挿入だけだけれども今度医療法の中に薬剤師がはいった/永い永い間、医療法の圏外だった開局薬剤師の苦痛の一つは除外された。

 勤務薬剤師の問題は厚生、時に文部省外多省に亘る問題かも知れないけれども、益々政治力を強めて何とか資格者として独立した存在であり、スッキリした存在にしたい、なりたいものである。これも政治力、団体の力でしか出来ない事である。

 1ドルの力、円の力も国の力であり政治経済の力であることを考え乍ら、話は自分の身の廻りにかえって来る。


高齢化社会                           副会長 国武 一人

 世界中で一番長寿国といわれる日本人の平均寿命は男子74.54才女子80.18才であり、この平均年齢前後が高齢者ではないかと思います。ところが、60才台でも恍惚の人があり、寝たきり老人の様な人がいる限り、高齢者の意味も幅広くなる様に思えます。私白身(M41.5.26日生)のことで恐縮でございますが、斯様な人達に比らべれば心身共に老化していないと思いますし、高齢者の域に達するにはまだ序の口だと人には言っています。これは決して自慢して言っている訳ではありません。今日では職業柄こうあるのは当り前のことで感謝しています。

 この年齢になりますと毎日が健康でありたいと言うのが第一の願いであります。勿論願いばかりでは駄目ですから、自らモルモット代りの様な気持で、勉強し努力している。NHKの現在豊な生活をしている中流階級の意識をもった国民の希望を調査した結果をみても健康が第一位に挙られています。

 健康は一朝一タに出来るものではなく、小さい頃より青年期になる頃までの生活環境の中で特に食生活が良ったか、悪るかったによって大体の基礎的なものが出来、その後の永い間の生活のすべての如何により、知らず知らずの間に老化を早めたり、とり返しのつかない状態が起ってきたりすると思います。まだその他沢山の条件があります。

 健康については、私達薬剤師は永い間薬局の店頭における大衆患者を通じて色々なことを体験し、勉強させられておりますので、大体の知識は持っておるわけです。

 前述の様に恍惚の人、ぼけ老人、寝たきり老人の長寿国になるばかりが能でなく、白慢にはなりません。斯様な人口が多くなるほど、個人的にも家庭的にも社会的にも大きなマイナスであり、経済大国の国民として何か一本抜けている様なことはありませんかと言われそうな気がします。

 今や国家的重要な問題として厚生省を始め各関係機関、団体などにより健康づくりが大きくとり挙られていることは、御承知の通りであります。

 私共薬剤師はこの方面で社会的奉仕をするための打ってつけのチヤンスがきました。と言うのは、今度薬局は医療機関の一つになったからです。ですから最も適した職能として、地域の健康づくりに積極的に行動を起すことは、薬剤師の地位向上につながり、国民の信頼感を勝ちとることにもなります。是非皆さんと共に今日からでも実行してゆきましょう。


「O M G」                      南支部支部長 高倉 博

 僕が物を書くとなるとゴルフ以外には全く「ウンチク」が無いので、必然的にそうなって来るのであります。「OMG」最近の流行の言葉のようであるが、さにあらず我々の医者仲間のゴルフ会の名称であります。即ち野間大池周辺のメディカルのゴルフグループと云う訳で、このゴルフ会の御蔭で僕は調剤専門薬局を持つ事が出来た次第です。

 OMGの発足は、昭和44年の11月に春日原ゴルフ場で産声をあげ、以後現在まで延々17年間、今年の2月例会で189回と続いております。190回は、記念大会として天草に一泊遠征の予定、又200回記念は昭和62年1月となりますので、丁度医者も休みのとれる時期でもあり、香港・マカオで、3泊4日位の予定で大いにエンジョイして参る計画です。 「OMG」の構成メンバーは、発足当時外科3名、内科1名、耳鼻科1名、皮膚科1名、歯科2名、薬剤師1名で毎月1回の例会を開いておりました。

 17年たった現在では外科7名、皮膚科1名、婦人科1名、内科2名、歯科2名、薬剤師1名の14名ですが、此の間に故人となったメンバーは松浦産婦人科と荒木耳鼻科の2人で、我々は何時も例会の度に故人の事を噂します。

 又「OMG」のメンバーには酒を愛するグループとマージャンをしないと気が済まないグループとがあります。ゴルフの表彰式のパーティが終わると早速二次会、三次会とハシゴする呑んベグループと、徒党を組んでマージャン会場に向う博徒連合とに分かれます。僕はその両方に御ツキ合をします。

 前はメーカーに御願いしていましたが、見返りに薬を買わねばならず皆負担を感じ出したので現在では会費制をとっています。

 17年間―諸にゴルフをし、酒を飲みマージャンをするとドクター薬剤師と云う遠慮は全然無く個人対個人で、悪口も云うし悪フザケもすると云う全く仲のいゝ友達であります。

 僕はこのグループの中間位の年令ですが、三師揃ったこの様な会は少いので、300回記念までも400回記念までも体力の続く限りゴルフをしようと皆で話し合っております。


OTC薬局の今後                     博多支部西部会 吉田 徹

 OTCを行なっている人で、OTCの先行きに期待を持っている人は、あまりいないのではないだろうか。

 もし、一時的に安売りで売上げが伸びていても、また、漢方薬や相談薬局とかで生き伸びられると考えてみても、それは一部分の一時的繁栄でしかない。それで近い将来OTC薬局が生き伸びれるとは考えられない。

 医療に於けるOTC薬局の薬のウエートが少なくなって行く事に、変わりないのではないかそれはとりもなおさずOTC薬局の社会での生き残りではない。

 OTC薬局の生き残りはできないのだろうか。私は生き残れると思う。

 ただそれには、今、OTC薬局を行なっている薬剤師、一丸となって事に当たればである。残念だが、今のOTC薬局にそれを望むのは無理なように思えてならない。


雑 感                        中央支部春吉部会 光安 龍彦

 先日久しぶりに同窓生に会い、酒を供にした。その席での話で、その友は今、開局を目指し準備中だそうだ。15年勤務したある大手メーカーを退職しての再出発である。

 退職し再出発の決断をするまでには、当然いろいろな迷いがあったに違いない。家族、身分、経済的なことなど、いままでは会社という大樹のもとで保障されていたが、独立し薬局経営となるとその責任はその個人に全部かぶさって来る。

 人生のちょうどなかばの40才という時期に一大決心をし、大樹のもとから出て独立しょうと決心させた要因は色々とあるに違いない。その大きな要因に一人のドクターとの人間的つながりがあったとのことである。これからの個人開局は、調剤を経営の柱におき、医師と協業することにより、より地域医療に貢献する薬局であるべきだと思います。

 彼の話の中で、開局するにあたり一番問題となったのは、薬局建設の土地がたまたま地主さんが一緒で、医療機関と同一敷地と見なされるということです。止むえず地主さんの許可のもとにわざわざ登記変更し地番まで変えたそうです。

 医療機関のとなりに薬局を開設し、保険薬局を申請すると問題化し、逆に保険薬局のとなりに医療機関が設立されることは別に問題はないそうで、どうもお役所の形式的な問題処理には納得いきません。

 福岡での分業はマンツーマン分業で、全国的にトップの分業率になっています。ところがこのマンツーマン薬局が最近では、第二薬局問題とからんで問題化され、医療機関と同一敷地の保険薬局は、薬務課からはチェックを受け、保険課からは指導対象の薬局のリストに上げられるといった、一種の迫害にもにた情況におかれています。

 行政の役割は決して否定はしませんが、もっと総合的な立場(患者さんの立場をここでは一番上に書くべきでしょう)に立って全体を誘導していくべきでしょう。問題がおこると、すぐ規制となり、許認可制となり、根本問題を解決せずに行政指導が強化されるのみです。

 こういう行政の指導を受けないためには、薬剤師会がもっと強い権限と自浄能力があればと念じますが残念ながらその力はありそうに思えません。

 薬剤師の永年の夢である医薬分業という制度は、法律上は実施されているのです。 医師法第22条によれば「医師は、患者に対し治療上薬剤を調剤して投与する必要があると認めた場合には、患者又はその看護に当っている者に対して、処方せんを交付しなければならない」と明記され、厳然と医薬分業が実施されなければならないことがうたわれているのです。

 この条文だけですと、何もマンツーマン薬局とか第二薬局とかの問題が生じる訳がありません。残念ながら、但し書きというものがあるため、第22条の文が空洞化されています。蛇足ながらその但し書きを記載します。

 ただし「患者又は現にその看護に当っている者が処方せんの交付を必要としない旨を申し出た場合及び次の各号の一に該当する場合においては、この限りでない」

 1.暗示的効果を期待する場合において、処方せんを交付することがその目的の達成を防げるおそれがある場合
>  2.処方せんを交付することが診療又は疾病の予後について患者に不安を与え、その疾病の治療を因難にするおそれがある場合
 3.症状の短時間ごとの変化に即応して薬剤を投与する場合
 4.診断又は治療方法の決定していない場合
 5.治療上必要な応急の措置として薬剤を投与する場合
 6.安静を要する患者以外に薬剤の交付を受けることが出来る者がいない場合
 7.覚せい剤を投与する場合
 8.薬剤師が乗り組んでいない船船内において薬剤を投与する場合

 以上の8項目の場合がきめられている。この8項目のうち7と8を除き、ほとんどの問題が、医師と薬剤師との積極的な協力によって処方せん発行は可能だと思います。現にこの但し書きを乗り越えて完全分業を実施しておられる医師はたくさんいらっしやいます。

 この但し書きをつき破って、患者さん本位の分業を考えると、どうしても医療機関から近いということも一つの条件に入るのではないでしょうか。やれ同一敷地だ、マンツーマン薬局だと行政側から非難は受けますが、前記の但し書きが生きている以上、こういう薬局形態もやむ得ないのではないでしょうか。

 ただ悪くまでも分業の本質を忘れてはなりません。


==会 務 日 誌==

8月5日 社保委員会
  6日 薬種商協会と懇談会
  7日 組織薬局委員会
  8日 九州ブロック分業推進担当者会議
  19日 学術委員会
  21日 本年度第1回支部長会
  22日 第1回薬物療法研修会
  26日 理事会
  28日 第3回納涼船懇親大会
  31日 市薬広報硲17発行
9月4日 社保委員会
  6日 調剤業務検討会(急患委員会)
   〃 南区健康フェア(南支部担当)
  20日 薬局組織委員会
   〃 県薬支部連絡協議会
  21日 第2回ふくおか市民健康づくりフェスティバル参加
  23日 久保田秀巳(顧問)藍綬褒章祝賀会
  24日 理事会
  30日 市薬街路灯設置
10月3日 組織薬局委員会
  4日 社保委員会
  7日 学術委員会
  9日 第5回福岡県覚せい剤・シンナー禍絶滅県民大会(出動)市民会館
  10日 九州山口薬学大会(12日まで)
  13日 ソフトボール大会雨天中止
   〃 博多区ミニ健康展
      於博多区民体育館(博多支部担当)
  14日 第21回学術研修会
  15日 県・新薬研修会
  16日 救急医薬品贈呈式(ボランティア事業)
  17日 薬と健康の週間(23日まで)
  18日 福岡大学薬学部創立20周年記念祝賀会(会長出席)
  19日 広報PR活動(天神・博多駅他)
  20日 県・第16回薬局薬剤師研修会
  25日 理事会
  26日 西区健康フェアー(西支部担当)
  31日 衛生局長、教育長へ補助金の件陳情
11月1日 本付和喜激励会 於ホテルニューオータニ
  5日 社保委員会
   〃 急患委員会
  11日 商組研修会(県薬)
   〃 相識・薬局委員会
  12日 県・新薬研修会
  13日 学術委員会
11月14日 福岡市学校保健大会 会長出席
  15日 第5回漢方研究会
  16日 全国歯科保険大会 冨永副会長出席
   〃 北九州市薬15周年記念大会 会長出席
  20日 第2回薬物療法研修会(学術委担当)
  21日 分業推進特別委員会
  25日 三役会・理事会
  30日 急患委員会
     薬局薬剤師業務手引書検討会
12月3日 江口県議法務大臣表彰受賞祝賀会
      国武副会長出席
  5日 福岡市医師会忘年会
     於ニューオータニ(役員、急患委出席)
  10日 山手陽一先生厚生大臣表彰受賞祝賀会
  エ7日 福薬連祝賀忘年会(セントラルホテル)
  18日 理事会
  28日 60年ご用納メ(役員出席)
  31日 市薬広報No.18発行
1月6日 新年祝賀会(ステーションプラザ)
      九州薬事新報主催
   〃 社保委員会
  10日 急患委員会
  13日 第2回支部長会
  14日 薬局・組織委員会
  15日 親睦支部対抗ボーリング大会
      (組織委担当)場所スターレーン
  17日 部会連絡協議会
  24日 理事会
  27日 学術委員会
  31日 老人保健連絡協議会 冨永副会長出席
   〃 国民健康保険運営協議会 会長出席
2月4日 社保委員会
  6日 急患委員会
  7日 第6回漢方研究会
   〃 薬局委員会
  10日 県・新薬研修会
  14日 第22回学術研修会
   〃 広報部会
  16日 関口恵造を励ます会(県歯科医師会館)
  18日 分業推進特別委員会
   〃 広報部会
20・21日 日薬代議員会(専務出席)
  22日 会堂薬局問題懇談
  25日 理事会
3月3日 本年度第3回支部長会
  4日 社保委員会
  5日 県薬支部連結協議会
  6日 学薬連結会議
  7日 急患委員会

昭和61年3月15日発行
福岡市中央区今泉1丁目1番1号
 社団法人 福岡市薬剤師会
   TEL 092−714−4416
 編集人 堀 江 秀 男
 発行人 冨 永 奉 資