会報第22号 昭和62年7月25日
 ■ 巻 頭 言

 ◆ 薬剤師職能と今年の課題 (薬局等構造設備規則の一部改正について)
                     社団法人、福岡市薬剤師会 会 長 古 賀 隆

 61年度は会長就任早々から衆参同時選挙をはじめとLて、62年4月の地方統一選挙に至るまで、全ての選挙が行われ、あわただしい1年でありました。しかし60年の医療法改正、61年の老健法改正、62年における、これは廃案にはなりましたが、売上税のときを見ても、やはり政治の場に発言力を持つことがいかに重要であるか事実で示されております。

 そういったことから福岡市薬でも、これからの政治活動は不可欠との考えから、今回政治連盟を設立することにいたしました。これから64年の石井道子選挙に向けて、又地方選挙に対しても強い活動態勢をつくっていきたいと思います。

 去る4月25日に代議員会も無事に終了いたしました。代議員会では今年もいろんな意見要望をいただきました。OTC薬局の浮揚策・最もむつかLいところですが、末端会員の現況を常に上部団体にあげ、中央における強力な施策を訴え、又市薬で努力すべき問題については、担当委員会を中心に前向きに取組んでまいりたいと思います。

 非会員対策については、アウトサイダーの加入促進と同時に、一般病院、診療所、会社、大学等の勤務者についてもPRにつとめ、1入でも多くB会員への加入をお願いしたいと考えます。

 分業推進については、特に面分業を進めていくについては、市薬という広範囲的視点ではなかなか対応がむつかしく、これは支部単位で行なうのがベターであると考えます。幸い支部三師会の開催が数支部で始まっておりますことは、大変よい兆しであると思います。少額ながら支部に対するこの点の予算措置をいたした次第です。

 扨て、公衆衛生に寄与する薬剤師職能の中で、急速にクローズアップされてきたことに試験センター関係の事業があります。これまでも、市立小中高校の飲料水の定期検査は行ってまいりましたが、61年11月より水道法弟34粂の一部改正により、ビル受水槽の10屯以上の設置者は定期的に検査を受けることが新たに義務づけられました。(従来は20屯以上)。

 従って小中高校の大部分がこれに該当することになり、市薬では県学薬の指導、示唆を受けて厚生大臣の指定機関の指定を受けるべく、県整備課、厚生省、福岡市等と度重なる折衝を続けてまいりました。

 ただ県内には厚生大臣指定の検査機関が既に7ケ所存在することから、新たな指定は至難なこととされておりました。これも関係各位の強力な御支援を得て本年5月末に、漸やく全ての手続きを終えて、厚生大臣の認可を待つばかりとなりました。

 これら試験センター事業は、収益事業にあたりますので定款の改正を必要といたします。

 代議員会において、これから予測される事業を含めて一部改正を提案、承認を得た次第です。

 そして今回、かねてどういう形で改正されるか注視されておりました「薬局等構造設備規則」の一部改正が6月1日付官報によって告示されました。予想外に早い実施との感がなきにしもあらずですが、これには即刻対応していかねばなりませんので、以下改正の趣旨要点、県薬の対応、そして市薬の対応について現時点での取決め、考え等を記しておきたいと思います。

 ◆薬局等構造設備規則の一部改正について

 1.改正の趣旨

 昭和54年に薬事法が改正されたときに、法弟9条の9によって医薬品の試験検査の実施方法等が定められましたが、いろいろな事情によって薬局等における試験検査のあり方については検討事項となっておりました。

 その後、GMPの施行等によって医薬品の製造段階における品質確保、管理などが技術的にも進歩し定着してきました。

 反面、医薬分業の進展にともなって特に薬局で開封された調剤用医薬品で日数の経過したもの、長期間貯蔵されていた医薬品、外部包装の変色している医薬品、薬局製造医薬品についての必要な試験検査等、薬局等における医薬品の品質管理、試験検査の必要性が年々高まってきたことから今回の省令改正となったわけであります。

 2.改正の要点

 従来の構造設備規則の中から次のものが削除されました。薬局の場合、●アスベスト金網●ガラス管及びガラス棒●寒暖計●コルクボーラー●三角架●湿度計●熱湯計の7点。

 この7点を除いたものについては、従前通り各薬局共設備することが必要です。そして次の5点が新しく追加されました。

 ●はかり(感量1mgのもの)●薄層クロマト●PH計●崩壊度試験器●調剤及び試験検査に必要な書籍。そして書籍を除く4点については、薬局の所在する都道府県内にある厚生大臣指定の試験機関と利用について契約をした場合は設備を免除されることになったわけです。

 ◆調剤及び試験検査に必要な書籍とは、正式には厚生省より各県薬務課を通じ今後指導がなされると思いますが,ほぼ次のような書籍です。

(ア)日本薬局方及びその解説に関するもの(次のうちから適当なもの)
 ◆第11改正日本薬局法(解説つき) 日本公定書協会編 8,000円(広川書店)
 ◆日本薬局方註解  40,000円(広川書店)
 ◆その他(解説つきのもの)

(イ)薬事法規に関するもの(次のうちから)
 ◆薬事衛生六法   3,800円C薬事日報社)
 ◆衛生行政六法   4,500円(新日本法規)
 ◆その他

 北九州市薬と契約する。
 契約料金については次の通りとする。
  北九州市薬会員  3、000円 (3年間)
  県 薬 会 員  6、000円 ( 〃 )
  非  会  員 180、000円 ( 〃 )

 3.福岡市薬の対応

 今回の改正により、福岡市薬はどうするのか、ということですが、昭和54年に薬事法の一部改正が行われた際に、福岡市薬でも会館を建設する機会に、試験センターを設置し、同時に厚生大臣指定を取得することを計画したことがありますが、先に述べた 薬局の設備規則等の改正については、検討事項として先送りとなったことから、これでは、今すぐ厚生大臣の指定を受けても会員の賛同は得にくく、経営、維持上、経済的にも困難をともなう見通しから、今日まで見送ってきた経緯があります。

 事実他の都道府県においても、いち早く厚生大臣指定を受けた試験センターにおいて経営的にかなり苦慮されていることが、毎年の日薬試験センター協議会でも報告されております。

 しかし、本規則改正が行われ試験センターの活用、必要性が具体的となった時には、厚生大臣指定を是非取得しなければならない、という気運も年々高まっておりました。

 昨年後半より、改正の時期が近いという情報を耳にするようになり、理事会においてもその際は指定機関の申請をすることに合意をみており、代議員会において必要な定款改正も行っております。

 そのような準備は事前にしてまいりましたが、これから重要なことは先づ県薬がどう考えているかであります。6月1日の官報告示を受けて、いち早く県薬試験センター特別委員会において市薬の意向表明を行ないました。6月10日には、市薬三役揃って県薬会長に協力要請を行ないましたが、神谷会長も全面的に支援する旨表明されました。

 次いで、神谷会長にも同行していただき、三役で薬務課を訪問指定申請について意志表明と協力を請願いたしました。

 しかし、問題はこれからであります。福岡市には厚生大臣指定の福岡県製薬協薬業試験所があります。行政と折衝していく上で一番の問題点になると思われます。又申請にあたっては、専門技術者の雇用、器具の整備など維持経費についても、かなりの出費を見込まねばなりません。

 しかし、幸いに水道法34条による事業が厚生大臣指定の認可を待つばかりの段段階にきておりますので、これらの収益事業等からも堅実に運営される見通しを持っております。

 福岡市薬は、他の県薬と匹敵する規模を持ち、会員数を擁する県薬の中心的葉剤師会であります。しかも他に比較しても全く遜色のない試験センターを付設する福岡市薬の会員が、今回の改正で他の試験機関に依存しなければならない姿は将来的にみても、い ろいろな面で大きな損失であると考えます。このような観点からも、執行部は総力をあげて、厚生大臣指定の取得に努力をしてまいりたいと思います。

 本年は九州山口薬学大会が、10月17、18日の両日福岡市電気ホールを中心として開催されます。只今準備も着々と進行しており、近日中にプログラム参加申込書もお届けできると思います。特に福岡市薬には強く支援を要請されておりますので、一人でも多くの参加をお願いいたします。会館問題については、現在さしたる動きはまだありませんが、今年中には市当局より新たな動きがあると考えております。

 叉、対外的事業に対する協力要請も多々あります。例年行われる福岡市主催の健康週間、64年開催のアジア太平洋博覧会、63年開催の福岡県健康フェスティバルなど、地域医療計画、ヘルス事業への薬剤師の積極的参画という意味からも理事各位、各委員、会員の先生方にも荷重な協力をお願いしている次第です。何卒御理解を賜わりたいと思います。

 今年も1年間よろしくお願いいたします。
                                    62.6.21.



 <薬事春秋> 「今後の薬局はどうあるべきか」

                    社団法人福岡県薬剤師会 会 長 神 谷 武 信

 昭和58年以降、毎年医療にかかわる大きな法律改正があった。昨年の老健法改正で一段落したわけだが、夫々の施行については、本年も引続き検討されて居リ、最終的には、国民の急速な老齢化に対し、世界に類のない健康保険制度を、どのような型で存続するかにかかって来ていると思う。

 老健法の改正で、中間施設には7つのモデルを指定し、その医療費をどうするか? 今秋には一つの案が出されると思うが、指向する所は次のようになっている。現在62万人のねたきり老人がいる。うち25万人が長期入院、25万人が自宅療養、12万人が特養施設に入っているが、昭和75年には100万人になると試算されている。

 そのうち30万人を中間施設に収容しようとするものだが、医師会の反対があったにも拘らず、その医療費は、アメリカのD.R.G方式が取沙汰されているし、家庭医問題懇談会では、西独やフランスが導入している人頭割も考えられている模様である。

 醵出金按分率で一歩ゆづった健保連は、早々に老人医療に限って、出来高払制度の改革を決議している。附帯決議第4項に゛醵出金按分率を変行することにより、被扶養者保険の財政運営に支障があるときは適切な措置を講ずる、とあり、今や保険が医療のすべてをカバーすることがむつかしくなって来ていると思う。

 法改正により浮び上った薬剤師職能は、下記図式の通りですが、国会で審議にたづさわった議員ヽ厚生省の関係者、薬業マスコミ記者等々から、一様に之だけの条件が揃ったのに、薬剤師会は何を考えているんだとの示唆もあります。

 このような時期、この部会で薬局はどうあるべきか、をテーマに討議の場が持たれたのは誠に有意識だと思う。

 制度の移り変りにより、ヘルス事業、休日急患業務、公衆衛生、学校保健活動、更には情報提供、試験とあらゆる場で活動の道は拡がった訳です。その前提として生涯教育も必要です。

 それ等えの参画は大変な労苦を要することだが、参加された方は、いくばくかの満足感を持たれることと思う。その考え方を如何にして薬局の日常業務の内に導入するかが今日の結論になるかと思う。調剤、情報活動(含中毒)生活環境の保全、医薬品の有効利 用、情勢の変化にそったプロパガンダも必要になろう。

 数ある薬業団体のなかで、国の施策に参画し活動出来るのは、今のところ薬剤師会だけである。しかも諸事業の実施は末端の市郡であることを考えると、日薬末端組織を社団法人化するのが急務となった。A会員50名以上の支部の法人化を提言します。



 <薬事春秋> 「卸薬専部門に明日はあるか」

                 福岡市医薬品卸業協会 会長 九薬社長 大 黒 隆 博

 「経営苦境の薬専卸、倒産寸前まで!?、日本卸連調査で判明」。去る6月3日付の薬局新聞第一面の見出しである。(社)日本医薬品卸業連合会・一般薬流通委員会は、傘下卸企業を対象に、薬専部門の経営効率調査を隔年実施しているが、このほど「61年度薬専卸経営の現状」をまとめ発表した。副題には、「流通機能変革の岐路に立つ薬専部門」とある。

 卸‐特に兼業卸−における薬専部門の不採算性が叫ばれて久しいが、今回の調査では、その極めて深刻な現状が一段と浮き彫りとなった。前回59年度の調査で、薬専部門の営業利益率(本来の営業活動における純利益率)はマイナス0.03%であったが、今回はそれがさらに悪化し、マイナス1.0%とな・っている。2年前に比べ、売上生産性は若干向上したものの、マージン率が大きく低下し、加うるに人件費以外の「その他経費率」が大幅に上昇したことが、赤字拡大の原因となっている。

 調査対象76社の中には、薬専部門の売上が総売上の50%以上を占める「専業卸」が6社ある。この6社は首都圏・近畿圈等の巨大都市圏にのみ存在し、九州等地方の卸は何れも医家向を主体として薬専部門を併せ持つ「兼業卸」である。従って、我々地方卸の実態をもっと正確にご理解頂くためには、このレポートのより細分化した説明が必要となる。

 地方卸の殆んどは、薬専部門の売上構成比が20%以下であり、極く少数の卸が20〜30%である。そこで、兼業卸の売上構成比別経営効率表をみると、売上構成比20%以下の60社合算の営業利益率はマイナス2.51%であり、30%以下の67社をとってもマイナス2.30%となっている。しかも、この赤字は慢性的であり、且つ年々エスカレートしつつある。

 薬専部門だけ切り離せば、正に倒産必至であり、卸としての社会的使命を放棄し、且つ医家向部門の黒字で補填する余袷が無くなれば、廃業の道を選ぱねばならなくなる。今日、卸薬専部門はそこまで追い詰められているのである。

 巨視的且つ長期的に見れば、サバイバルの一つの手がかりが今回の調査の中にある。合算で唯一の黒字グループは、月商規模別では10億円以上、売上構成比別では50%を超える専業である。仮に薬専部門の全国月商が四百億円とすれば、月商10億円の而も専業の卸40社(九州では5社程度)で成り立つこととなる。固よりこれは机上の空論であり、企業の統合合併が理屈だけで簡単に断行される訳ではないが、集約化・専業化は打開策の一つとなるであろう。

 当面の改善について私見を述べさせて頂く。

 先ず身近なことから要望を申し上げれば、当日配送分の朝のご発注は是非前日に頂けないだろうか。どの卸もいま薬専部門の採算好転のため、業務の劾率化に懸命に取り組んでいる。効率化には本来のセールス活動時間の極大化が必要であり、30軒に近い担当得意先をカバーするには、遅くとも9時30分には出勤しなくてはならない。それが、ごく少数のお得意先の朝のご発注により遅延し、10時半以降の出勤となっている。

 稼働時間が短かくなれば、お得意先一軒一軒に対する情報提供等本来的サービスは低下する。サービス低下を来さないよう努めれば、帰社時間が遅くなる。(どの卸でも薬専部門の帰社は他部門に比べ、一時間乃至1時間半は遅い)ご発注品の翌日の配送制は、卸の本来的サービス享受のため、又卸薬専セールスの労務管理のためにも、柾げてのご協力をお願いしたい。

 市薬としての研修事業については、店頭販売薬剤師のための生涯研修を継続的・体系的に行う必要がないだ為うか。年々来客数が減少する理由は、国民皆保険制度や薬事行政等外部的要因も多々あるだろう。然し、条件が悪ければ悪いだけ、店頭販売についても薬局経営についても人一倍の勉強をせねばならぬと思う。薬剤師職能向上のための医療用医薬品研修は、固より結構である。

 然し、開局薬剤師の先生方の圧倒的業務は店頭における指導販売である。店頭販売がカバーする領域は、疾病予防であり、健康管理・健康増進でありそして軽医療である。薬局は、生活者としての地域住民にとって、最も身近で相談し易い「健康情報の拠点」でなければならぬ。店頭に立って来客を的確に指導し、適切なO・T・Cを販売する権威ある薬剤師づくりこそ、離れゆく客を再び薬局に取り戻し、薬局を不毛でなく豊穣な小売店にするための急務ではあるまいか。

 そうした店頭薬剤師に必要不可欠な知識とノウハウを、店頭医薬学、店頭販売学として集大成し、最も重要な研修プログラムに組み込まれることを提案申し上げる次第である。

 「君よ 朝の来ない夜は無い」と言う。然し「天は自ら助くるものを助く」である。薬局様と我々卸とがそれぞれの自助努力をベースに、お互いをサポ一トし合う「相利共生」の豊穣な世界を相共に切り拓いてゆき度いものである。



 <薬事春秋> 「職  能  考」

                       福岡逓信病院 薬剤部長
                          福岡市薬剤師会監事 日 高 賢 志

 昨今の医療情勢の変化は目まぐるしく、医学薬学の進歩に伴って医療の高度化、多様化は止まるところを知りません。その渦中にある私ども薬剤師の現実的な問題について私なりの所感を述べて皆様のご批評をいただきたいと思います。

 現在の行政を考えてみますと、行政面では医師、看護婦、放射線、臨床検査技師などに比して薬剤師という職能が如何に取り扱われているかということです。薬務局はあっても薬剤師職能については全く無関心に等しい現状です。また医薬分業についても過去40年来の努力にもかかわらず、未だ完全医薬分業は施行されていません。薬剤師の努力不足も一因ですが、利害相反する団体の薬剤師に対する評価も分析してみる必要があります。

 薬剤師の資質の向上に積極的に取り組む一方、行政、政治を上手に活用し、職域代表の議員を政界に送り薬剤師の声を取りあげていただき、地位の向上をはかるべきではないでしょうか。

 つぎに薬学教育機関である薬科大学は、学問の殿堂として多くの学生を薬剤師として社会に送り出しながら、卒業生が社会的にどういう評価を受けているかについては、全く無関心であると言っても過言ではないでしょう。

 それに反して医師は開業、勤務医をみても常に大学と密接な関係をもっていることは、私にとって非常にうらやましいことです。大学としても卒業生が気安く相談や、研究に行けるように門戸を関放していただきたいと思います。私ども薬剤師も積極的に大学の門を叩くことです。学問は大学を卒業したら終ったと思うのは全くナンセンスです。

 薬剤師としての職能域は開局、勤務、研究、行政など多方面にわたりますが、立場を異にする他の職能には全く無関心で、お互に相手を理解し難い点が多くあります。日本薬学会、日本薬剤師会、日病薬など所属する団体は数多く、会員も細分化されるにしたがい薬剤師の団結は、非常に困難で行動力も弱くなります。

 私ども薬剤師は職能別という垣を越えて、もっと団結し山積した諸問題にあたるべきです。身近な例で恐縮ですが、私どもの病院では開業医、勤務医を含めて毎月症例研究会なるものが聞かれています。一面から云えば利害相反する医師が一つのテーマで討論し、切瑳琢磨の結果、医学向上に大きな成果をあげています。

 これは私の理想ですが、私ども薬剤師も大学、開局、勤務薬剤師がお互いに問題を提起し討論を重ね、それを積重ねることにより薬剤師としての専門性を自覚し、社会的な評価を得、医療人として胸をはって行けるように努力をすべきだと思います。そして医師会をはしめ各医療団体と学術、職能面の交流を深め、現在のきびしい医療環境の中、将来の展望を期待しつつ一歩一歩努力を重ねて行くべきではないでしょうか。

 ここで職能を異にする薬剤師の一致団結をお願いすると同時に、薬剤師会としてもこの問題に真剣に取り組んでいただきたいと考えております。



 <フォーラム> 「雑  感」

                 博多支部 千代・古塚部会 十字堂薬局 鶴 原 正 蔵

 昭和の初期青年男女をして、大いに感激せしめたる書物に、鶴見先生著の「母」なる小説があった。主人公大川朝子の経営せる薬局は売上げ日増しに減少し、余儀なく閉鎖寸前の状態であったが、突如街に鈴の音高く走り回る欧州大戦勃発の号外を手にし時事刻々と高騰する洋薬の販売に意を用い、薬局の商運を一気に回復した場面がある。戦争が薬業界を一新させる例でもある。この教訓は先の第二次世界大戦に於いても同様の結果をもたらした。

 明治初期、太政官布告により医薬分業が発せられたるも、当時受入れ薬剤師僅少の為実行に移されず、以後薬剤師会の悲願として、朝に夕に医薬分業達成が叫び続けられた。

 終戦後即ち昭和二十四年七月一日、G、H、Q、の依頓により、日本に於ける、薬事全般の調査とそれに基ずく機構、制度の改善勧告の為、米国薬剤師協会、薬事使節団が来日した。七月十五日、別府に於いて、使節団による特別講演会が行われ、サムス準将は「今の日本の医療は、医師は薬を売り、歯科医師はゴールドを売って生計としている」と強くアッピールせられ、各地講演の後、九月十三日、同使節団一行は、「法的及び教育手段により、医、薬を速やかに分離せしめる事により、医師は診断し、処方し、薬剤師は医薬品を確保、貯蔵し、医師の処方せんに基づき調剤、投薬する目的を達すること」との勧告文を、厚生省、日本医師会、日本歯科医師会、日薬に手交して帰国した。

 昭和二十六年三月二十四日、政府はこの勧告に基づき、医薬分業法案を国会に提出し、同年六月、第二十二条に但書を挿入し、妥協修正案が国会を通過、施行せられたが、薬剤師にとり、この但書は今日に至るも尚大きな痛手となった。しかし幸いにも先輩諸兄姉の並々ならぬ御努力により、今日各地で医薬分業が進展しつつあることは誠に同慶の至りである。

 一方教育に於ける部門も、又大きく変化をもたらした。かっての3年教育は4年に延長せられ、更に日薬会長は昨今、薬学教育機関に対し修学期間の延長いわゆるインターン制を要望せられつつある状態である。薬剤師の任務の重大さと医薬品の文字通りの日進月歩に対処のためと、更には予想される看護婦教育の延長とを合わせ考えてのことと思われる。

 私は同窓生諸君の特別なる御推挙により母校、京都薬科大学法人役員の末席を42年以来今日まで20年間も汚さして戴き、その間、薬大の教育の使命とは何かと、薬学それ自体が主体なのか、それとも薬剤師免許証そのものが主体なのかと、教育者等の間にわだかまる深い悩みにも接することが出来た。

 教育は文部省に、薬剤師免許証交付が厚生省の主管にあることにも大きく起因しておるようであり、またせっかく薬剤師免許証の交付を受けても、実際に使用すべき職場特に開局、医薬品販売業に若い薬剤師が興味を示さないことにも大きな不満があるようである。

 ちなみに京都薬大に於ける60、61年度卒業生の進路は次の如くである。今や学校教育は昔日の惑どころでは無く、全く目をみはるものがある。

 質量分析、かっては考えられなかった豊富な実験用動物飼育室、R.I.、コンピューターによる臨床薬学情報センター、更に来秋より講義の始まるバイオテクノロジーの教育と研究等、その止まる所を知らない。

 この薬学の凄まじい躍進と、質量共に限り無く前進する製薬業界、これに準じた医療関係の薬剤部の充実、それに反して未だに旧態を以前として脱することの出来ない分野、新しい教育を受けた若い薬剤師諸君が、薬局、医薬品販売業に目を向けないのは、むしろ当然の事かと思われる。前図の薬局、販売業就職者並びに未定者の中には、いわゆる家業を受継ぐ若干名が含まれており、これ等を除けば、全く淋びしいかぎりである。魅力ある職場作りこそ急務である。

 今後の福岡市薬剤師会の進展と、その中心となるべき開局部会の物心両面に互る充実を長い間薬剤師会の走り使いをした者の一人としてひたすら祈るものである。



 <フォーラム> 「自己の生涯教育法」

                              九大病院薬剤部 藤 下 修

 ナポレオン・ヒル

 私が琉球大学病院から九大病院に戻ることを決意した年、昭和53年、ナポレオン・ヒルの「巨富を築く13の条件」(実日新書)を読んでいた。すでに読まれた方には無用の解説となるが、あの大富豪、アンドリュー・カーネギーの命を受けて、ナポレオン・ヒルが、20年間かけて、500人を越すアメリカの偉大なる人物の成功の秘訣を要約したものである。

 しかし、公務員である私ば巨富″に対する熱意が足りなかったのか、この本を読んで次のことを感じていた。
 ●理解できない部分を読むのは難しい
 ●興味のない部分を読むのは難しい
 ●同じ本を何度も読むのは難しい

 実は、後で知ったことであるが、理解できることと、実践できることとは別で、理解できることが、実践できるようになるためには、少なくとも6回以上繰返し読むことが、心理学的に必要なのである。

 医学や薬学の書を読むときにも、上述の困難さは同様である。理解できないところ、興味のないところは、いつまでも読まず、そして解らず、まして6回以上読むこともないので、なかなか実際に役立つまでには至らないのである。本のみによる生涯教育が難しい理由はここにある。

 ポール・マイヤー

 堀岡教授が今年の春、九大を退官されるころから、私は、゛指導者″ということについて考え始めていた。それは、自分で自分に行なう生涯教育の方法をどうすべきか、ということと共通している。こんなとき、ボール・、J・マイヤーのカセットテープ1)による自己教育法を知り、3月23日からこのテープを聴き始めた。前述のナポレオン・ヒルの本の内容をさらに充実させた「成功の理論」「成功の秘訣」のプログラムである。

 このテープを知る前は、私が“あなたの成功″のための生涯教育について、意見を述べることなど想像もしていなかった。(学術担当の仕事としての生涯教育については考えていたとしても…)それが次の、ように変わってきたのである。何のための生涯教育か?真に国民の医療に貢献し、その二一一ズに応えるためのものであるならば、それは必ずOTC薬局を浮上させ、調剤薬局をより発展させるものであるに違いない、と。

 カセット・テープ

 このカセット・テープによる自己教育法の優れた理由の一つは、本だと読まないところは解らないが、テープだと聞こえるところは、解るようになるという点である。

 第二に、興味のないところでもテープなら聞こえてくる。眠くなったら眠ればよい。睡眠学習という方法もある。眠っていても、それは子守歌のように、あなたの潜在能力(まだ使われていない140億個のうちの97%の脳細胞)に入力されるに違いないからである。

 第三の理由は、解らないところも、繰返し聴けるという点である。本だって読めるじゃないかと言われるかも知れないが、おなじ本を6回以上読むのは難しい。でもテープなら6回以上は楽に聴ける。カラオケで歌われる曲など何度でも聴ける。そして聴いていた曲が歌えるようになる。(逆に、歌詞カードと楽譜だけで、何回繰返したら歌えるようになるか、やってみていただきたい。)

 薬学や医学に関して言えば、学術講演会は、演者の声を聴き、スライドを見て、資料を読み、メモを取る優れた方法ではあるか、一度きりである。それ故、これらの内容をビデオ化して集積したり、すでに作られているビデオ・ライブラリーを活用する方法は、繰返し学習することを可能にする。

 以上、自己の生涯教育法について述べてきたが、これを「自己の成功法」とされるか否かは、あなた次第である。ただしあなたには、この方法を知るまでに私が過ごした無知なる9年の月日を、再び繰返すような無駄なことだけは避けて欲しいと祈るものである。

 最後に、この自己教育法を知るきっかけを与えて下さった堀岡教授に感謝の意を表したい。



 <フォーラム> 「学校薬剤師になって思うこと」

                          福浜小・当仁小担当 森 田 幸 枝

 私は昭和45年始めて姪浜小、姪浜中の学校薬剤師に就任致しました。当時姪浜地区には学校薬剤師として仕事をする人が不足していました。

 学校薬剤師として如何なる仕事をするのかという内容も知らないままお引き受けした次第です。故に研修会には西区の先輩の諸先生方の御指導を戴き、曲りなりにも学校薬剤師としての職務を遂行出来るようになりましたことを心から感謝致しております。

 当初は野口、竹尾、田添の諸先生達と一緒に担当学校のプールの水質検査等に参りました。というのは、未だその頃は学校当局に私達学校薬剤師が検査に行くことを迷惑がられ嫌な顔をされたものです。それ故3、4人で一緒に行きますと心強く又、仕事の方も皆で手分けしてしまうので能率も良く、テキパキと仕事も終ることが出来たものです。

 この事は単に自分の担当校のみでなく、諸先生方の担当の学校も見学出来、大いに対学校的にも、対人的にも、又社会学的にも色々と勉強になりました。暇な折には同じ薬剤師同志なので話もはずみ、大変楽しく懐しく旦亦嬉しい思い出の一駒です。

 しかし、そのうち市学薬の方からの指示にて、学校にはなるべく大勢の人数では行かない様にとのことで、個人で行くようにしました。その頃はプールの水質検査や照度、黒板面の色彩と明度等の測定をしていましたが、仲々学校側も注意事項を改正して呉れない時もありました。そんな事で学校側の対応によっては、何人かで行く方が良い結果をもたらした時もあった様に思います。

 現在では学校薬剤師の存在も、薬剤師会、学校薬剤師会、教育委員会の方々の御努力により、その仕事の内容も有意義さも認められて参りましたが、当時は思うように学校側の協力が得られずプールの水質検査、又薬品投入の必要性すら長い間かかって学校薬剤師が指導して参ったことでした。

 しかし未だ私達の仕事の内容については理解されていない点が多々あります。先日も学校の机、椅子の適、不適の調査を致しました。その調査に当っては学校側は協力してくださいました。

 しかし、実行となるとなかなかです。デ一タが出ても規準があっても、それを実行するのは学校側ですから、やはり教師の協力を得なければならないのです。学校の先生方にその必要性、規準の信憑性〔ここではJIS号数をさす〕を認められなければ実行はされ甦いのです。そこに私はジレンマを感じる次第です。

 然し段々と学校側も学校薬剤師の仕事を理解してくれ出した事は事実でございます。薬剤師会、学校薬剤師会の組織力というものに、つくづくとその偉大さを感じております。今後共、化学の進歩と共に検査内容も一層高度化し範囲も広がって来ることと思いますので、諸先生方の御指導に預ることも多いと思います。何卒よろしく御教示くださいます様お願い致します。

 最後に右も左もわからなかった私を今日どうにか職務を完うすることが出来るまでに御指導裁きました市学校薬剤師の方々に心から厚く御礼申し上げます。



 <フォーラム> 「薬剤師会の役割と薬剤師職能」

                     博多支部 住吉部会 はなたれ薬局 冷 川 嚢

 このところ薬局の環境は、相変わらずのOTC不振、大手チェーン店の進出、安売り、調剤報酬の丸め等となかなか明るくなりそうにない。会員の間からも、薬剤師会に入会しているがメリットがないという声が聞かれる。

 しかし、このメリットということについては、考え直してみる必要がある。このことは薬剤師会の存在意義にもつながる。法的に医師、歯科医師、薬剤師の三師は同等の立場にあるが、現実には最も弱い立場にある。こういう弱い存在の者が個々に事に当っても及ぶわけがない。従って個々では弱い力でも、力を結集すれば増大することができる。つまり薬剤師会入会のメリットはここにある。

 会から何かをしてもらうことではない。互に力を合せあって、目的達成を目ざすことである。ただ会費を払うだけの消極的参加でなく、目的をもって積極的に参加し、問題点に当っていかねばならない。そして、こういう末端会員の声を集約し、また指導していくのが、会長及び役員の役割である。

 私の所属する博多支部では、今年3月博多区三師会による「政治を語る夕べ」には65名の、5月の博多支部総会には54名の出席が得られた。市薬5支部の中では最高の集りだと思っている。これは堀江元支部長(現市薬副会長)が基礎を築かれ、さらに現在の高杉支部長の努力により、会員の認識が変化してきた為と思われる。博多支部に限らず、市薬、県薬、日薬と盛り上げていかねばならない。

 さて今回の統一地方選にて、県知事選挙には3師会協力のもと、薬剤師会も今迄になく活発に運動がなされた。しかし残念ながら田中候補は落選してしまった。これ迄になく積極的に会として取り組んだということは評価できるが、2つの問題点が残された。一つは何故市長や知事は保守候補でなければならないのか。今回自民党は売上税を国会に上程し国民の大反感を買ってる最中であった。田中候補も売上税反対を表明したが、時既に遅かった。保守側候補が勝つ見込でいたのならば、世論を少し甘く見過ぎたとしかいいようがない。

 2つには今回の3師会協闘は、単に医師会の機嫌を損わない為としかとれない。3師会が協闘することには賛成である。しかし協闘するにはそれなりの政策協定が必要である。市薬の会報や広報、県薬からの通達等を見ても政策協定は示されていない。以後協闘 するからには、政策協定を全会員にはっきりと示さねばならない。

 かって処方箋による調剤料が320円に改定された時、日薬のこれ迄の努力の成果と評価されたが、私にはとてもそうは見えなかった。努力がなされていたのは事実であるが、むしろ、医師会のお蔭様で分け前をもらったに過ぎない。それが証拠に処方箋発行料が50C円に改定された時から、第2薬局が出現するようになり、その後日医会長が変わり、医師会の力が弱まると、次々と医療費削減策がうち出されてきた。

 分業の理念より、医療費の削減が優先なのである。今迄医師会の力が強大で薬剤師会が何と言おうと、医師会に反対されるとイ可も通らなかった。だからと言って追随ばかりしていると、いつ迄も対等の力関係など及びもつかない。

 自分等の主張が正しいと思えば堂々と主張しなければならない。国民全体に審判をはかり、医薬分業推進の認識を高めねばならない。民意を得ずに悲願威就もあったものではない。徳洲会病院が各地に進出を始めた頃、地元の医師会はこぞって阻止の動きに出た。 しかし地元民は、24時間診療、つけ届なしの徳州会病院を観迎し、医師会の方が悪者扱いにされた。

 また週刊誌等マスコミも徳州会の応援をし、その上当時の武見日医会長も徳州会を認め、医師会は反対できなくなった。これなど端的な例である。

 以後医師会も急患制の強化やモラルの向上に取組むようになった。医薬分業が進展しないのは、医師会に比べて薬剤師会の力が弱過ぎるということはあるが、あまりにも、国民の間に医薬分業ということが浸透Lていない為でもある。残念ながら、この方面には努力不足としか言いようがない。

 もっともっとマスコミ等を通し医薬分業を訴えて行かねばならない。初めの方にも書いたが、医師と薬剤師は法的には平等である。しかし、この平等は保証されていない。薬剤師は医師の処方箋に基づいて調剤を行う。処方箋中に疑義ある時は、医師に正さなければならない。その回答が納得いかない場合調剤を拒否できることになっている。

 もしこれが開業医と調剤薬局の間で実際に起れば、以後処方箋が発行されなくなる可能性が生じる。こうなれば、調剤薬局にとっては死活問題である。なまじ薬剤師としての職能を活かしたばかりに失職するなど、全く不合理な片手落ちである。つまり体制としての医薬分業でなく、医師の任意分業である為にこういうことになる。

 先程も書いたが主張すべきは主張し、国民全体医薬分業が当然という認識に達する迄持っていかねばならない。いつまでも医師会の小判鮫では、永久に目的は達成されないだろう。

 社会保険本人の一部負担金導入の際、薬剤師会は建前上反対したが、本音は賛成であった。結果はこ存じの通り一部負担金が導入され、薬局にとっては何も良い事はなかった。こんな事をやっていては、医師会からは信用を失い、厚生省からは甘く見られるだけである。事に当る場合、末端会員に至る迄議論を尽し一丸となってぷつからねば、何も得る物は得られない。

 諸先輩の会員の先生方からは、既にわかりきった事だと言われるかも知れないが、我々薬剤師が職能を活かして身が立つよう、薬剤師会に積極的態度で参加して行きましょう。



 <フォーラム> 「午后の暇な調剤室で」

                 西支部・原部会 たつみ薬局 清水調剤薬局 清水 達実

 毎日薬局をしていても、これとぃって特徴のある薬局でもなく、特技や趣味に秀いでてぃる訳でもなぃので、会誌の紙面を汚がすのではなぃかと思いながら書ぃてぃますが、時の流れは加速度的に早く感じ、我々の居る薬業会でもめまぐるしい変遷と洪水のような物品や情報は容赦なく我々の薬局を巻き込みます。

 また薬局薬店の乱立や雑貨の山積、そして薬までも巻き込んでの安売合戦と次元の低い所でのそしりあい、薬剤師としての自覚も薄れてゆきます。まわりを見わたすと不景気の中で、もっと厳しい条件下で他業種は淘汰されて、逞しい活力を発揮し新らしい店を繁栄させている。それと比較すると薬局は比較的安定した業種として、なんの進歩もなく昔と同じように、安売りの繰返しが起っている。

 さて、私は一日のうち半分をOTC薬局で、半分を調剤薬局で仕事をしていますが、医薬品の供給という面では同じ薬局でありながらその方法では、あまりにも違いがある事にとまどいを感じます。OTC薬局では薬剤師も売り手で、お客様がくると丁寧に頭を下げその心の中では、如何に利益のある薬を売ろうかと商売心が先行し、たとえ薬剤師として知識を駆使して、お客様の健康の為に良い薬を選んであげても、ある特は努力や熱意の甲斐なく売れなかったり、もし売れた時は嬉れしさに何度も「有りがとうございます」と頭を下げてしまいます。

 それに対して調剤薬局では処方箋を特ってこられた患者さんの方が「お願いします」と頭を下げられ、その処方箋を受け取った薬剤師は、これぞ薬剤師の仕事とばかりに自信にあふれた態度で調剤し、服用指導をして投薬します。すると患者さんの方が、有りがとうございました」と何度も頭を下げられますし、薬剤師は「おだいじに」と言いますが、有難うございます」とは心の中で思っても言いません。

 そうはいってもO T C薬局では、来店するお客様はその薬局を信頼して選んで来て下さるお得意様ですから、薬剤師はそれに応えるべき最全の努力と技術で薬を選び、生活指導や食事指導をします。その効あってお客様が健康を取り戻しお礼を言いに来てくれた時は、OTC薬局をしていて良かったと満足感にひたれます。

 また、OTC薬局では軽医療とは申せ来客する患者さんの病は多種多用で、病院でいえば総合病院なみで、それに関連してお客様とのコミュニケーションも持てて楽しい。いっぼう調剤薬局では、大部分の薬局がマンツーマン型できまった医院からの処方箋であり1日中同じような薬ばかり調剤していて、調剤薬局がいくら頑張ってみても処方箋を持って来る患者は医師のお得意様であって、処方のとおりにしか薬を調剤できず、どんなにのみにくい薬でも、必ず服用させるように指導しなくてはいけないし、いろいろ指導しても病気が治ったらそれはやはり、医師が治したのであって調剤薬局の方にはあまり伝わってはこないし感激もないのです。

 OTC薬局では、この乱立乱売の中で良い薬を自信をもってすすめても、他店との売価が気になってしまうし、利益をあげる為にある特定商品のみに力をいれてしまう事もある。

 調剤薬局では当然値引きもなく、OTC薬品を売る努力に較べると、今の所高い列立が得られるようです。このように同じ開局薬剤師としての職能の問には、現場でみるとあまりにも大きな二面性があります。もちろん一軒の薬局が、OTCと調剤を兼ね備える事が出きれば理想的だと思います。

 先般の医療法改正で、薬局薬剤師も医療制度の法の中で一員として認められた事は、地位の向上という面で嬉しい事ですが、薬剤師がそれを維持する為には自覚と責務も仏果になってくるでしょうし、卒後教育を年間10O時間という課題も科せられるし、地域に根づき、地域医療の他にもいろいろの世話係や商店会などにも引っぱり出され、本業の薬局の方がおろそかになりがちです。

 それにしても今は不景気の中ゆえ、あたりかまわずの安売り乱売屋も侵入して来たし、なににも増して配置販売業や医薬品まがいの健康食品の横行、そして医薬品副作用過大報道による薬不信。分業でも医療費抑制の中で、特に報酬抑制や薬価切り下げでつらいめに合い、ひがみ目で見ると、薬局業界ばかりに風当たりが強くさえ感じてしまう今日このごろです。

 しかしながら薬剤師職は己が選んだ道であるし、天職として授かったのだから日本の薬局全部が、我々の職能団体である薬剤師会に入会し、さらに薬剤師の全てが入会しやすくして皆が入会し、団結して我々の薬剤師会が力をつけ、活力を持って統一された方向に従って進むなら、また薬剤師ひとり一人がプライドと自信を持って生きるなら、今のような雑貨の山積みや薬の安売りに手を染めずに、大切な医薬品を自信をもって国民に供給し、薬剤師本来の職能に没頭した仕事が全うできる世の中になるのではないだろうか。



 <随筆シリーズ> 「薬業の道に入って60年を振りかえり」

                      東支部・箱崎部会 箱崎薬局 馬 場 勘 二

 大正13年に熊本薬学専門学校に入学して以来、薬学の知識を利用しての生活、その道一筋に生きて来た過去をふりかえり、お話しする事は同業の皆様少しでもお役に立てばと思い恥を偲んで書きました。

   独   立

 昭和5年勤めていた熊本実験医学研究所を退職して、開業する為に福岡市博多区大浜薬局の管理薬剤師をしながら、同級の宇野益雄君や博多駅前の吉村薬局に勤めていた、井手敏君の案内で、春先の日の短かい2月の終り頃、開業する場所を探し歩いた。適当の場所は見付から無い、福岡市の西の方の炭坑街は肌に合わない。南の方は今の住吉から先は、農家ばかりで町らしい処が無い。東の方が将来開けるのではないかと思った。

 名島の水上飛行場を見物して帰り、長い長い松原通りを藁葺農家の点々と続く粕屋郡箱崎町の東の端に、一軒の土蔵作りで2階建の白壁の空家を見付けた。夜の7時頃、うす暗かったので周囲の事情も知らず、探しあきた気持もあった、借りる決意をして家賃15円、敷金なしで契約をしたのは昭和5年3月18日だった。

 家の建坪は60坪で、中庭を含めて100坪の敷地で表側の店舗になる所は間口5間、奥行4間で、広すぎて並べる商品が足りないので半分を板を打ち付けて間口を扶くしカウンタ一式の接客台を作って店舗らしく商品を一列に並べて開業したのは4月1日、私が26才で独身だった。当時の造作費は下表の通りです。

   売薬棚引出し付き 2ケ       135円
   カウンター及び床張り造作      175円
   薬局の設備等調剤器具及び装置瓶    40円
   商品代、大山万年堂払い       149円97銭
   川口屋                49円67銭
   鳥飼医療店払い            25円
   井上工業薬品・化粧品         36円
   看板代                54円
   其の他の雑貨(染料を含む)      76円36銭
                  計  747円

 いよいよ独立だ。全く未知の土地で、自分一人だ、貧乏暮しの両親を早く助けてやり度いし、学費の援助を受けて御世話になった馬場つぎさんに返済したい。期待と不安の背水の陣だ。500円の持金で運転資金なしだ、その上250円の借金。今から思へば良くやったと追懐する。

 昭和5年4月1日開業当時1ヶ月の売上 1ケ月分合計金550.01円、一日平均18.33円

当時の物価はゴールデンパッド煙草   7銭
  散髪代             3円5銭
  薬剤師会費(年間)       4円
  店員の給料(食事付)      4円50銭
  女中の給料(食事付、仕込)   4円50銭
  生活費5人分          30円

【取引関係】
薬 品:大山万年堂、三苫一党堂
    川ロ屋、染井博多支店
    高杉製薬
医療品:鳥飼薬局、林田中商店
雑 貨:ヤヨヒ本舗、三亀化粧品
    近藤染料、資生堂

※現在の物価1万円位と考へると
 生活費1月30円は30万円となる。
 今私の店の売上に凡そ相当するのでその当時より進歩していません。

 昭和5年当時の薬剤師会の模様

 私の開業した箱崎町は粕屋郡だったが福岡市薬剤師会に属していた。粕屋郡で薬剤師会員は15名、箱崎町は佐々木薬局さんと私と2人で、佐々木さんは町会議員で郡の消防団長だったので、私は連絡役だった。市薬の会長は大学前の本村薬局の御主人で、県の会長は井上善の社長さんで中洲の峰松さんが副会長で、会長はロ髭を生やした威厳のある長身の方で、副会長は小柄で親しみ易い方で2人共熊本薬専の出身者だったので、可愛がられた様な気がする。

 昭和7年薬局に配布された薬剤師綱領の文章の一部

 薬剤師と言う、同じ職業を持つ一人一人が同じ心、同じ希望、同じ情熱を共有して、目的達成の為の連帯を確立する事が大事で、地域社会に根ざし、地域の共感と感動を呼び乍ら、社会の中に限り無く波紋を広げ、よりよき社会と心の連帯を広げる業種である。

 ※薬剤師会費は年間4円でした。



 <随筆シリーズ> 「遠い風景」

                    中央支部・大名部会 十字屋薬局 森 山 富 江

 引越しの荷物の中から小さい女の子が通りをながめていた。向かいの板塀の上から無花果の青い大きな葉っぱがのぞく。

 少し大きい女の子が珍しそうに家の中をみて通りすぎる。知らない人ばかりだなぁ、女の子はちょっぴり不安にちょっぴり悲しく、黙って上りロに腰かけて表をみている。ずっとずっと昔の、然し決して消えることのない風景だ。

 家の中にはおバアチャンとカアチャンとトウチャンとニイチャンがいたが、ひる間はいつもおバアチャンと2人だった。

 夏の日、遊びつかれて帰ってくると、台所の天井から吊した大きなショーケの中から、赤い皮をした黄色い切口の冷んやりしたフカシ芋をとってくれる。時には水ガメの中に、プ力プカ浮いているうぷ毛のチカチカした桃をむいてもらうこともあった。

 それからお天気の良い日など田舎の小父さんが、手拭いで頬かむりをして裏口からはいって来て、おバアチャンと何か話しながら下肥をとり、桶をかついで何度も往復する。臭いなぁ。フカシ芋のおヤツにあくと1銭もらって駄菓子屋にゆく。当りクジを手に、飛びトビし乍ら帰る女の子の背中で、ゴロゴロと雷がなりだす。ワーッと女の子が家の中に走りこむと追っかけるように夕立が道をたたく。

 ひと息、夕立がすぎると通りの向うに大きな虹がかかる。街の木も人も潤いをとりもどしたように淡々と話しだす。イチヂクの実をいっぱい入れた龍を天秤でかついでイチヂク売りがやってくる。もぎとられた無果花の白いお乳が光っている。

 母は夜おそく帰ってきた。朝起きると枕もとに大好きな童話の本がおいてあることがある。手に持てない程大きくて厚い本だ。母が仕事に通っている小倉のお店のお嬢さんから借りてきてくれたものだが女の子にわかる筈がない。

 イソップ物語やグリムのようなものだったと思うが、フクロウのさしえが今も頭の隅のほうに残っている。

 或る朝、目をさますと大きなせ栗の袋がおいてあった。ワアー栗、とはしゃいだ声をあげると、おバアチャンが゛昨日はお前の誕生日やったとタイ。と云う。母が小さい娘のために、小さいが暖い心で買ってきてくれた甘栗だった。

 学校に行くようになると、何かある時はきまってトウチャンがきた。いつかお便所で転んで、からだじゅうウンチ臭くなり、ワアワア泣いていたらやっぱりトウチャンが迎えに来てくれた。大きなトウチャンの外套と背の高い姿を見たとたん又、ワーッと涙があふれた。

 

 4年生位になると本に夢中になった。海老茶色の表紙の少年少女世界名作全集で、少公子や小公女を読んだときの感動! それからは手当り次第の乱読ですっかり本の虫だった学校はとても好きだったが、手工は一番きらいだった。白い紙に赤い色紙を丸く切ってはり、日の丸を作るのが仲々うまくゆかず、糊がしみて赤く手垢のついた画用紙にペッタリ押してあった朱色の丙と云う判コ、カアチャンに見せずにソッとしまっていたが………。。よむことの好きな少女はひとかどの文学少女のように成長してゆき、いろいろな物語りのなかに暫し自分をおき、しみ透るようにその心の中にさまざまの心を滲ませていった。

 その頃からようやくトウチャンが伯父であり、末娘が3才の時、夫を亡くした母が2人の娘を連れて実家にかえり、子供と一緒に生きてゆくために日本刺繍を習い乍ら、小倉に勤めていることもわかるようになった。

 5年生位の時かな、母がやっと自分の店を持つようになった。何時もデパートの呉服部の人が来て、母と仕事の打合せをしたり、出来上った反物を持って帰ったりしていた。忙しい時季は夜半まで刺繍台に向っていたので、朝は、きまってオバアチャンが御飯を炊き、お弁当を作ってくれた。その頃の母は美しく、しんなりして、父兄会など出て来ると、他所のお母さん達にくらべ、何となく際立っているのがとても嬉しかった。

 仕事の関係か、すっきりした着物姿で何かの会合や旅行などにもよく行っていた。当時は珍らしい実務者であった母にとって、それはようやく訪れた、しぱしの華やぎであったろうか?

 姉はもうひとりの伯父の処へ養女にもらわれていた。製鉄所の労務請負の仕事をしていた伯父の家は大きな2階家で、広い2階には若い男衆がゴロゴロいて朝晩のごはん時は壮観だった。馬のハミ入れのようなお橿や大きな皿が並び、五衛門の釜ゆでのような大釜でごはんが炊きあがる。ピーンと張った空気と活々とした男達の動き、伯父が出勤する時はまた堂々たるもので、さながら花と竜の世界であった。祗園まつりなど泊りがけでゆく時は、提灯山を見てかえり、伯父がつれていってくれる甘い物屋の永金時など、若松の家では許されない体験で、とりわけ楽しいものだった。

 私と違って些か大人で寂しい心をもっていた姉は、そんな中で大きな声を出すでもなく、いつも一寸くらい目をして、掃除やごはんの手伝いをしていた。2つしか離れていないのに随分年上のように思えたものだ。養女にゆくと云うのがさして重大でなく思えた私の小さい心で、その頃の姉の哀しみと傷みはわからなかったのだろう。

 女学校に入学して弓道部に憧れ、最初の昇級試験に2級をとった時は、この伯父が一番喜んでくれた。薬専にゆきたいと思いはじめたのは何時頃からだったろう。キューリー夫人を夢見たか?入試は九大の医学部で行われた。

 試験がすんで、冷い北風の吹く東公園を、母とならんで歩く。ホッとした気持と、何かとんでもない方向を走りはじめたのではないかと云う不安で何か話したいと思うが、何も言葉にならなかった。発表が学校に届いたのは丁度放課後で、家事の時間のあと片付けに割烹室の掃除をしている時だった。パタパタ廊下を走ってくる音と“庄島サーン通ったトョ、通ったトョ、ミンナ”と云う友の上ずった声が、ワーンと耳の中でなった。一瞬声なく、ついでドッと嬉しさがこみあげてきた。私も走る!

 誰に1番に知らせるべきか。 上京まで嫁入支度のような慌しさのなかで、姉が入学式に間に合うようにと、白いブラウスを縫ってくれた。

 上野の山の桜が霞のようにハンナリと匂う頃、その名も桜木町の校舎の門をくぐる。 おカッパ頭にした3人の郎女が、東京弁の中で少し緊張してポソボソと北九州弁でしゃべった。入学式が終って九州へ帰る母を送るぺく、学校の前の石畳の遺を歩く。着物姿のよく似合う母と、母に似ず丸々としたダンゴ鼻の少女、短い衿足に東京の風が吹く。ことば少く谷中の坂を下りてゆく母娘、ほの暖いような春の空気と、並んでゆく母の着物の匂いを、女の子はいつまでも忘れない。

 昭和17年4月!日本のきびしい歴史のなかで、今、多感多難な青春がはじまろうとしている。

 あれからソロソロ半世紀、いつも級長だった姉と、頑張っても級長にはなれなかった妹は、母と3人、時々旅にでる。相変らず賑やかな末娘の話しを80をとうに越した母は、昔のように穏やかな笑顔で、楽しそうにきいている。



 <随筆シリーズ> 「停年予備軍のいらだち」

                    済生会福岡総合病院 副薬剤部長 仲尾次 広 子

 大正の終りから昭和の始め生れの方々、つまり、その多くが最後の薬専時代を経てこられた先輩方で、次々に第一線から退いていかれ、いやが上にも世代の交替を感じさせる昨今の病薬である。

 卓越した指導力で病薬を率いてこられ、輝かしい業績とともに手力を残しつつ、あざやかな引きぎわを作られた堀岡先生の場合は、会員に与えた印象がまだ余韻を残している。

 小学生で終戦を迎えたわれわれの世代にとって、戦後の混乱期に学生時代を過ごしてこられたこの年代の先輩方には一種、気骨のようなものを感じる。個性的な逸材がそろっていらっしやるし、豊かな経験と努力によってつちかわれた貴重な指標を、折々の交流の中で後輩に残して下さった。

 それにひきかえ、「次はお前の番だよ」という声が現実のひびきをもって迫ってくる中で、後輩のために残すものが何もないいらだちを感じながら、お粗末な幕切れを迎えそうである。

 今さしかかっている地点は、マラソンでいうと、いよいよゴールが視界に入る競技場へ向けて心の準備を始めているところであろう。

 グラウンドー周のあいだはただ、完走の努力のみをたたえる拍手が聞える中、走り続ける最終ランナーの姿がイメージされて仕方がない。

 華やかなレース展開と記録で観衆を引きつける能力がなかったのだから、せめて最後の力を出し切って、ひたむきさだけでも認めてもらうしかないだろう。

 世の中にはさまざまな引退劇がある。スポーツの世界では第一級の選手達が華やかな演出でしめくくりを作り、観衆の拍手喝釆を浴びながら去っていく。彼らの努力は並太低ではないから、一言一句が感動を呼ぶ。そして、体力的には充分の余力を残しているので、本当の意味での第二の人生への出発をかねている。

 平均寿命がますます延びて来た現代、一般市民の停年の場合も後輩たちは「お元気で第2の人世を歩んで下さい」などと祝福の言葉に花束を添えて送ってくれる。それがお世辞であることは先刻承知であるからして、残るレースこそ大切にしたい。

 思うに、われわれの商売は、気もちの持ちようによってはやりがいのある仕事にもなり逆に、惰性で続ければ全くつまらないものにもなる。

 特殊調剤があったり、専門的な判断を要する場面もたまにはあるが、日常の仕事は機械的な作業が多く、近い将来、コンピューターかその大部分をやってくれるまでのつなぎ役でしかないように思う時さえある。

 反面、世の中の人が最も関心をもつ健康についての情報をふんだんに受け入れることのできる環境の真っただ中にいる。それは大きな特典であり、積み重ねた知識はささやかではあっても、大切な財産である。ただ、薬局の中では添付文書を手がかりに、うわすべりの知識だけで、薬剤師でございと構えてはいないだろうか。もっと役に立つ知識にみがき上げる改修作業が残っているような気がする。そのための材料はそこここにたくさんころがっているし、新しい治療法や新薬の情報も毎日のように流れてくる。新素材もどんどんとり入れながら仕上げの工事を進めていきたい。



 <随筆シリーズ> 「お酒が好きです!!」

                   中央支部・警固部会 小野調剤薬局 小 野 信 昭

 清酒、焼酎、ウイスキー、ワイン、ブランデー、何でも大好きです。日本酒を飲んでいて長年不思議に思っていたことは、表示の種類の多さです。調べてみると色々な事が分りました。俗に清酒と言われていますが、大きく分けて3段階の成分表示があります。

(1)米・米油だけで作られるものは「純米清酒」『生一本』の表示がなされています。
(2)米・米油・醸造用アルコール(米1トン当り120リットル以下のアルコール添加)で造られるものは『本醸造』、『特別本醸造』の表示がなされています。
(3)米・米油・醸造用アルコール・醸造用糖類(米1トン当り220リットル以下のアルコール添加)で造られるものがあります。

 この中で曲者が「醸造用アルコール」「醸造用糖類」なる成分表示です。本来日本酒は、しぼりたてでアルコール分が20%近くあって、これに水を加えて15〜16%の清酒を造るわけです。

 つまり、白米1kgから2.2リットル程度の清酒が造られるわけですが、第2次世界大戦時の米不足の時代に行なわれたアルコールと水で増量し、薄辛くなったものにブドウ糖・水飴・コハク酸・グルタミン酸ナトリウム・香料等を加えて、原料1kgから実に3倍の6.7リットルの日本酒とは言い難いアルコール飲料を造ることが、今なお、大メーカーの手で行なわれているのです。

 国産ウイスキー・ブランデーに致ってば原酒(モルト)の割合によって、特級(30%以上)1級(20%以上〜27%未満)、2級(10%以上〜17%未満)と定義されており、アルコールで薄められ添加物で加工されたアルコール飲料を、我々消費者は長年ウイスキー、ブランデーとして飲まされ続けているのです。

 医薬品においては厳格な成分表示がなされている様ですが、先日新聞報道された様に保存剤、安定則に関しては未記載のものが数多くあります。当薬局でも抗生剤の坐薬基剤に含有されるカプリン酸で粘膜刺激があったと思われる例が数人出ました。

 これらの生成分外の添加物は注目されにくい範囲の事柄ではありますが、薬副帥としてチェックしておくべき問題だと思いました。酒同様薬品に関しても叉実生活においても表に出ている物事の裏に隠れている全体像を、常に司る努力を欠けてはいけないと思うこのごろです。



 <随筆シリーズ> 「くさぐさの花に寄せて」

                            白十字薬局勤務 河 埼 昌 代

 チュンチュンジュクジュクすずめの宿あらそいも一段落したようです。どこかで雨蛙もないています。そのうすやみの中に小さな黄色の花がうかびあがってみえます。何という名の花でしょうか。何げなくみている足もとの草花などよくみると実にいろいろなものがあり、名前を知らないものの多いのにおどろきます。そして年ごとに種類もかわっていくようです。競争があるのでしょうか。

 高橋治著「くさぐさの花」やっと手にしました。うれしくて一息に頁をめくってしまいました。俳句との組み合せが何とも楽しく教えられることが多くて、これからも度々頁を開くことでしょう。俳句にもなじんでいけそうです。道ばたの野菊や田んぼのレング草など宅地化が進んでみられなくなってくるのはさびしい限りです。2、3年前まであったアカツメグサも消えました。タンポポも少なくなり、スミレも見られなくなりました。そのスミレが春先、植木鉢に植えられて花屋の店頭に出ていたのにはびっくりしました。

  董程な小さき人に生れたし (夏目漱石)

 オオイヌノフグリは健在です。まだ風の冷たい春になったばかりのころ、淡青色のこの花をみるとほっとします。今はカタバミが黄色い花を咲かせています。ねぎ坊主をみたのはいつのことでしょうか。

  ねぎ坊主雨降れば又さむくなる   (大野林火)
  けしの花10日たちけり散りにけり  (加舎白雄)

 10年ほど前よく遊んだ俳句かるたの中の句です。麦畑も又増えてきているとか。

  麦刈て近江の湖の碧さかな  (白井露月)
  菜の花や月は東に日は西に  (与謝蕪村)

 小さいころ車窓からみた田んぼのレングの赤、麦の緑、菜の花の黄色のコントラストの美しさが忘れられません。

 今年もスズランの花が咲きました。葉が枯れおちてなくなったようにみえてもいつのまにか芽を出して白い花を咲かせます。強い花なのですね。露草もどんどんふえていく草のようです。可れんな花に引かれて、植本鉢にうえたら傍若無人に茎をのばされて、閉口しました。

 昨年、くすの木の途中に根づいてしげっているのをみた時は感心しました。芍薬の花はもう散ったでしょうか。今頃はショウブの花の盛りでしょう。まもなく蓮も水面に姿をあらわすことでしょう。夏もすぐそこです。



 <随筆シリーズ> 「32年ぶりのクラス会」

                      西支部・七隈部会 藤野薬局 藤 野 久 枝

 突然、東京から男性の声で「32年ぶりに福岡へ帰るから、クラス会をしよう」と電話がありました。名前を聞いても、顔は思い出せません。30年余り会っていないのですから…。小学校の同窓生でした。アルバムで捜がしましたが、昔の写真ではっきりしません。

 クラス会は卒業以来、私は行ったおぼえがなく、先生にも申し訳けなく思っていましたので、この機会に是非にと思い、友人に電話をしてとりあえず何人でも良いから、集まろうと云う事になりました。先ず、先生に連絡を取り、友達がやっている店でクラス会を5月4日にする事に決まりました。当日は、30数年ぶりに会う先生や友人の事で、胸をふくらませて出かけました。丁度、博多は「どんたく」で、にぎわいは最高潮です。

 先生にあげる花束を用意して、店に入ると、友人3人と先生が、来ていらっしやいました。開ロ一番は「ワー変っていないね」でした。先生はとても大きい先生で、私達にはとてもやさしかったと気憶しています。男性にはこわい先生だったようです。

 名前は、池田トシ先生。今もって独身、体重は昔よりずっと肥られて、うん10キロ、とても若く感じられ、体格のよさには圧倒されました。

 同窓生も11人集まり、懐かしく、感激のひとときでした。会うまでは顔がどうしても思い出せなかったのですが、会うと一度に思い出し、なつかしい顔がそろっていました。

 小学校時代の顔とあまり変らず「ワルソウ坊主」の顔もありました。シワと白髪がちらりほらり、でも、気持は一気にタイムトンネルをくぐって30年前にもどり、話に花か咲き話はつきません。

 

 担任の先生ともなると、私達は尊敬と何君は、授業中窓からエスケープして、学校中を捜がしたとか、何君は悪い事をして、ピンタされたとか、昼休みは男子と陣取をして女子が勝っていたとか、学校では男子と女子はにらみあっていたが、家に帰ると結構、男子も女子も仲良く遊んでいたとか、それはそれはにぎやかに話がはずみました。時間がたつのも忘れて……。信頼をもって慕っていました。年令の差ももちろん感じていました。しかし今では、私達かグーツと先生の年に近ずいたようで、自分達だけが年をとったような感じがしてなりませんでした。夜もふけ、又の再会を楽しみに、先生には増々お元気でクラス会には必ず出席して下さるようお願いしてお別れしました。

 後日、住所録と写真を送ったところ、クラス会に出席出来なかった人より電話をいただいて、来年是非開いて下さいとの事でした。4、5年もすれば、孫をだいている人もいるでしょう。



 <随筆シリーズ> 「もう一人の私 in MAY」

                     西支部・姪浜部会 タケオ薬局 竹 尾 真 一

 町の緑がひときわまぶしさを増す5月。そんな日曜日の午後、私はバスに乗り薬院へ。天気は晴れ、でも心の中は一面雲が広がってる。気持ちを落ち羞かせるためにコーヒーを一杯のみ、白衣に着がえて調剤台に向う。ひさしぶりの調剤に胸ドキドキの私。 そんな気持ちをよそに、来ました、処方箋。(心の中に雲か厚く広がる。)

 指先は不自然なりズムで処方箋に従って薬を調剤する。水剤、散剤etc。調剤済みの薬は、監査して頂いて患者さんへ渡されていく。窓口でのテキパキとした指示に、患者さんは頭を深ぶかと下げ「ありがとうございました」と一言。患者さんは薬袋をしっかり持って子供さんを大事そうにだいて、御主人と足早やに家に向かわれる。その後ろ姿からは「お薬をもらったョ、よかったネ。」「これで良くなるョ」とでもやさしく語っているように見える。なぜか満足感とでもいうようなものが全身を満していく。「おだいじに!」(「カイカン!」)

 このような光景は、私の店では何度あるだろうか?努力不足を反省させられる。(中略)5月の太陽で、町の緑はひときわ美しさを増す。四季は、文字の上では春・夏・秋・冬と書ける。でもそれを感じ取るのは、その人その人で違ってくる。またその時の心の変化で同じ人でも感じ方が違ってくる。人というものは「感情の動物だ」とはうまい事を言ったものだと思う。

 子供は思いついたままに勝手にチョロチョロする。でも大人は、理性とかもろもろのものが慟いて形にはまった動きをし、(反省し、また)行動する。まして薬剤師というものも、その与えられた権利、知識をその人かどう生かすか、人にどう与えられるか、そ してまた、薬剤師も1人の人間なのだから、その人はその人の人生を進むべきなのであろう。

 時間が刻々と過ぎていく。さあ、あなたも力強く、夢を持って、あなたのレールの上をまっすぐ進みなさい! 夢も力も皆んな同じよに与えられているのだから。

 途中下車もいいでしょう、ただひたすら走るのもいいでしょう。薬剤師というものの基本は一人の人間であるという事なのだから。「さあ、一緒に薬剤師という一人の人間の人生を楽しみましょう!」と、その時、店のドアか開いた。(と同時にもう一人の私の姿が消えた。)私は無意識のうちに「いらっしゃいませ」と言葉をかけた。

「レール」(もう一人の私)より
                       第一薬大硬式庭球部 17回生



 <趣味・紀行> 「碁 と 50 年」

                      博多支部・博多西部会 児島薬局 児 島 豊

 私は碁か好きだ。最近では毎日7時起床、先づ新聞碁を並べる。前日まで続いた碁が、今日はどんなに変っているかを見るのが楽しみで、その後で前日の売上げ仕入を整理する日課としている。

 私が始めて碁と触れあったのは昭和10年、長崎で薬専卒業前に下宿の友人に手ほどきされたのに始まるので早50年を過ぎている。

 卒業後始めて就職したのは九大病院薬局だった。勿論1、2年は無給。当時薬局長は柳川出身の江口作先生だった。調剤室、製剤室、研究室とまわされた。調剤室は調剤台が6台程あり1台には薬剤師2人に若い袴をはいた女の人が1人づつ付いて調剤した。散剤、水剤を手ぎわよく包装していた。現在では全く考えられない風景だった。

 仕事は大体4時頃終り、夫々に図書室に行ったり、写真もはやり暗室にとじこもる人、野球の練習、中には碁を打つ人もいた。

 薬局長はじめ岸田氏(香椎)、花田氏(死亡)、等氏、西島氏その他数人いたようで、薬局長にも何目か置いて教はった。

 この時代が一生の中最も平和で優雅な時代だった様な気がする。仲間に柴田源一郎氏、西島数喜氏、小松真佐雄君、柴田伊津郎君、福井正樹君、磯田正春君等がいた。

 レコードコンサートとしやれこんで春吉の柴田氏宅に皆んなでおしかけたりしたこともあった。映画にも行った。井出寛、森川信劇団の寸劇を見に川丈に足を運んだりした。夏は涼を求めて中洲のアサヒビール園に、那珂川の川面を眺めながら、喉をうるおしたものである。

 この生活も3年位で別れ、当時大阪衛生試験所にいた先輩西原氏(現糸島)を便り上阪阪大理学部化学教室赤堀四郎先生の助手として勤務することとなった。

 此処でも碁に縁があり、同室の研究員と実験の合間を見ては石を並べた。福岡で2、3年もまれていたので割合に力がついていたようで少々面白い碁がうてるようになっていた。

 崇塚先生も碁が好きで隣室の小竹無二雄先生と、時折自室に閉じこもって打ってあったようで、どちらが強かったか知らない。

 当時尼崎の寺院で何か湿布剤を家伝薬として出していたので、その管理とし下宿することになり、比処の和尚が碁が好きで近所の人を招んではよく打っていた。たまの日曜日には奥の20畳ある大広間でパチンパチンやるのは何とも云えず大人になった気特だった。

 其の後3年位して赤堀先生が顧問をしてあった「大学目薬」の参天堂製薬研究室に就職した。その頃から戦時態勢が日益しに厳しくなリ、実験用の試薬の入手も事欠く様になり工場の方ら戦意昂場とかで厚生活動が盛んとなり体育部、書道部、囲碁部が出来夫々活発に動き、私は詩吟部、囲碁部を任せられ時々碁会をやった。その頃結婚レ児島の家を継ぐことになった。1年程して実家の人手不足と長男の誕生で博多へ帰った。

 その頃2人いた店員も1人は徴用され、当分は店頭に1入立つ心細さをしみじみ感じたものである。

 時勢も益々きゆうくつとなり一流商品が次々と少なくなり、ついには配給制度となり一流商品は部会単位に配給された。メンソレ、ノーシン、仁丹、セイロ丸など全く貴重品で勿体つけて販売し、夫々に似つかかしい商品名の同質のものが出回った。

 その窮屈な時でも亡父は碁が止められず、月に1、2度はプロの他方棋士を招き近所の緑川医院長(現先先代)、当時寿通りで精々堂として活躍してあった渡辺荒太郎氏と共に自宅の2階で指導碁を打ってもらっていた。渡辺さんは少し強かったが外はちょぼちょぼで亡父と打つのが楽しみだった。

 昭和20年6月19日の福岡空襲で仮店舗も自宅も焼失し1年後箱崎で仮営業していたが、父も空襲病と云うか少々ぼけて気力も衰え10日後病疫した。それまで細々と病院廻りを店員にまかせていたが、私自身自転車で1週間おきに郡部の医院を訪問し受註配達もした。

 その中に2、3の医院とも碁を通じて知りあい、時には返りの時間を気にしながら過したこともあった。これも3、4年は続いたが、大手間屋の進出もあり止むなく手を引き小売専門で店頭に立つ様になり今日に到っている。

 博多支部内での囲碁部の発足なったのは、10年程前支部役員で志賀島での一泊懇親会の時偶然にも4人もの同好者がいたことで、早速支部の同好者を募集した処8人もの人が東まりました。

 九鉱薬品の山田氏、前第一病院の吉本氏、斎藤氏、高杉氏、冷川氏、樋ロ氏、山川氏と私です。早速年1回づつ4 5回は続きましたが、最近では日曜は研修会とも重なり都合のつきにくい人もあり、その後立ち消えとなっていることを残念に思っています。

 最近では三師会の交流も多いようだし、幹部の方々にも囲碁の対抗懇親の機会を与えられる様呉々もお願いします。

 碁は面白いものです。上には上、下には下もあるからだと思います。正月など7、8才の幼い小学生名人がプロの名人に何目か置いて戦っている真剣な顔を見るのはほほえましいものです。

 50年もたってこんな棋力でこんな小学生に歯が立たないと思うと情けなくもあり、その深さをしみじみし考えさせられています。



 <趣味・紀行> 「博多一口にわか」

                    東支部・千代吉塚部会 千代薬局 須 原 勇 助

▼ 中曽根首相
 「中曽根さんが売上税反対で国民からそうスカン食うござるが、此の間から板付の飛行場に来られたけん、お茶をどうぞて云うたらプリブリはらかきなった。」
 「貴方がどけんか云うとろうもん」
 「そらあ一八十八夜の(八女茶一止めちゃ)はどうですなって云うとる。」

▼ アメリカとの友好
 「中曽根さんが此の間からアメリカに行きござったが、うんと費用のかかりよろう」
 「そげん事は貴方が心配しなる事がいるもんかい。日本の黒字問題でアメリカが腹かいとるとの修繕やらしに行ってござるとの事じやけんユーコー(有効−一友好)に使はっしやる」

▼ 車のキー
 「あんた車ば置くときや、ヨート注意ばしとかにや、近頃は車の中の品物ば盗るドロボーの流行しよるばい」
 「う一ん犬丈夫、あたしゃ車ば置く時はいつでも千ヤーンとキー(気)掛けとる」

▼ ポストンマラソン
 「アメリカで有名な心臓やぶりの丘で6千人も走ってござるとい、瀬古選手は優勝してござあが、日本円で650万円ぐらいもらわれるげな」
 「それならりックにでも入れて帰られるとな」
 「そりゃーボストン(ボストンバック)に決まっとる」

▼ 長者番付発表
 「長者番付発表のあっとるが、高額納税者は土地もっとる人のごとあるな」
 「そらあ、そうじゃろう、今と昔じゃ一ジダイ(時代・地代)も替わってきとる」



 <趣味・紀行> 『中国』視て歩き食べある記

                 中央支部・警固部会 アサヒ薬局警固店 野 口 定 子

 医食同源を2つに分け“医文化の旅”と“食文化の旅”夫々の視点で歩いた中国の或年或日の印象を順不同で記してみたい。

 昨61年5月は、医文化を主目的、渡辺武先生御夫妻を団長に医師薬剤師鍼灸師およそ40名で、上海、成都、重慶、南陽、北京を訪ね、各中医学院表敬訪門、技術交換、同仁堂薬局や荷花池市場(漢方薬市場)見学、仲景墓地、医聖祠参詣等の視て歩き。

 今年3月は、食関係オーナー主軸の薬膳グルメツアー(15名)に便乗、゛年に1度は北京ダックを食べよ侃と肥満を気にしながらも怪気炎の食べ歩き。

 この2つの旅の共通点は唯2つ。その1は大阪空港発着で始点は上海、終点は北京ダック賞味の北京。その2は九州から唯1人参加、未知の人との同室で旅心が増幅されたこと。

 2つの旅は、目的も、訪れた都市も北京、上海以外は異った上、5月(連休直後)と3月(二月堂のお水とりの頃)という季節の相違からか、中国旅行中の天候も全く対象的であった。

 旅中10日間一滴の雨もなく五月晴れの゛医文化の旅に反し、゛食文化の旅、、はドカ雪の大阪空港、出発おくれによる上海玉仏寺の精進料理キャンセルをふり出しに、翌日の上海も雨あられ、広州、桂林こそひどい降雨はなかったものの、北京の2日目まで片時も雨具は手ぱなせなかった。

 同行の誰かが「中国でまだ1度も太陽に面会できない」と嘆いたら、現地通訳が「3日前までは大きな氷が降ってたから、雨はまだ良い方だ」「エッ、大きな氷が? ウッソー」と誰かのオクターブ高い声、「ああ、氷ってアラレのことだろう? それともヒョウかなきっとそうだよ」と違う声音。

 「でしょう、でしょう」と一同ナットク。昨年5月の北京は乾燥して黄砂が舞い、レース様のネッカチーフで顔も頭もすっぽり覆って、砂ぽこりをさけている現地の女性に感心しながら中医学院へ急ぎ、更に中国中医研究院中薬研究所の図書室の蔵本、古文献の量と質に脱帽の後、中国医学科学院薬用植物資源開発研究所の薬用植物園見学の折も5月の太陽は、おしみなくふりそそいでいた。

 その陽ざし一ぱいの標本圃は、およそ3ヘクタール、約800種の植物が展示栽培、草木性の植物は1種あたり3坪位宛100種を越えるかと思われ、大木性のものとは、植物形態別に区画栽培され、開花前の草麻黄の外、甘草、地黄、黄伯川、大黄、当帰、等々全部を見るにはとても時間も体力も不足。印象深く思いおこされるのは、おいとま直前に見せていただいた別宅人工栽培の天麻。お別れにいただいた両手一杯の萄薬のみごとな花束、その馥郁たる花と太陽の薫香。

 今年の北京は3月の降りしきる雨の中を、昼は郷土料理、夜は薬膳料理、そして明日は宮廷料理と、どんよくなまでに゛食。を追いかけている。日本語の上手な成人病研究の医師に、2日間、テーブルを御一緒してもらい料理一品一品の材料、薬理、漢方薬、民間薬から医食同源を聞きながら、眺める、写す、味う、忙しい思い、珍らしい驚き、知らなかったことを知り得たよろこび、全部ひっくるめて満腹。

 ホテルに帰るバスの窓から゛マキシム。の看板が見えたとたん「今夜マキシムに行く人○○時にロビー集合」の声。同室の東京の女性もドレスアップして外出。誘われたけど1大部屋に残’〕静養。北京のマキシム御一緒したい気持はあるが゛水毒体質。の悲しさ、゛冷温相打つ。雨夜の夜食は自信がない、過食は毒だ等とロ惜しがってるうちに眠りにおちてしまった。

 翌日はじめて、3月の中国の太陽を拝む。故宮博物館の仏教美術に目を奪われた後、持参のロングスカート着用で゛坊膳、、の宮廷料理。さすがにここの料理は説明を聞くまでもなく品格が高い。医食同源には違いないが゛ゲテモノ、、的なケレン味のないのも良い。味覚も視覚も洗練されている。昨夜のヘビ料理、サルの頭、シカの生殖器(子宮、卵巣、ぺニス)やアキレス腱等の料理は、それなりの珍らしさはあるか、くりかえし食べたいとは思わない。この坊膳の料理は毎週でも食べたい、りクエストしたい。まだ陽のあるうちから、とっぶりと闇に包まれるまで何時間位食べつづけたのだろう、テーブルを離れて、隣接のソファーでのデザートも亦、結構。

 黒ゴマかと食べながら、よく見ると黒アりだったり、大皿一杯の竜にはエビとチョコレートが使われていたり、洗練された上品な古典の外に、いくつかの意外性が組みこまれて長時間の食事に、ほんの少しアクセントの気くばりがあった。

 この素晴らしい宮廷料理で思いおこすのは昨年5月南陽市政府招待所でのお別れパーティ料理。゛医文化の旅、1番の美味で去り難い想いをつのらせた南陽市は御存じ我等が医聖、張仲景師の故郷である。

 南陽市には北京、上海の国際空港からの直行便がない。地図で探しても「南陽」の文字が見つからぬ。かなりの田舎町かも……とのおもいを胸に、重慶から23時間程の軟臥車の旅を経てようやくたどりついた、はるけくも遠い憧れの地であった。

 孫市長お迎えの10台の車に分乗して宿舎に向う町並は、しっとりと美しい。たっぷりの歩道の車道側はプラタナス(すずかけ)の並木、その並木の中央に直線でのびる車道。河南の立派な地方都市で張仲景墓地の外、張衡(後漢の偉大な科学者、天文学者)の陵もあり、゛後漢の光武帝。の故郷でもある。

 仲景墓地、医聖祠参詣の念願を果した後、武候祠、漢画館、人民病院、張仲景国医大学及附属病院、済康薬店、玉器廠、恪花工芸廠、糸織厳等、日曜日も特別参観させていただく。

 この玉器廠で、私は仲景玉像にめぐりあい、入手することか出来、りックに安置してその後の中国を゛同行二人≠ナ歩いた。

 仲景師像の両手の間の玉の巻物……陰陽の間……の中味が視える様に、それに近づく様にヽ精進せねば。ずしりと重かったあの実感。東洋医学の一里塚として今後の精進を誓っ、た南陽の、まばゆいばかりの太陽。

 南陽での2泊3日の間、渡辺先生と旧知の孫市長はじめ全市をあげての熱列歓迎、関係機関こぞって視て歩き。過密スケジュールに終始便宜を与えていただいた上「日中友好世代相伝仲景事業万古流芳」の記念旗を贈られ喜びを重ねた。第1夜は孫市長招待の歓迎レセプション、第2夜は答礼レセプションと昼夜通してテレビカメラが。お蔭で夜の散歩でもサインを求められ、たちまち人だかり。対日感情は良好であった。

 仲景墓地、医聖祠参詣の折、矢数道明、寺師睦宗、渡辺武、諸先生方の先年の揮毫が石に刻まれ、石刻長廊に掲げられていて、先達の熱い息吹に射すくめられるような、熱いものが伝わるような、何とも言い知れぬ感動を覚えた。一年を経た現在でも医聖祠での感動は、胸をしめつけるような強さでよみがへり、我が精神の足りなさを恥じる。

 仲景墓地、医聖祠、仲景病院、張仲景国医大学等きれいに整備されている南陽市にも、時間給水や食券(民衆)という一面があった。

 中国の一入っ子政策とペアで思いおこす一コマである。それでもテーブルを囲んだ中国の方々は誰方も、大そうおもてなし上手で、にこやかで、酒も料理も知らぬまにすすむ。南陽市で唯一の日本語通訳という初老の女性は、日本語の唱歌をいくつも歌ってくれた。その中の……兵隊サンのおかげです……という歌詞に、私の仲景酒の杯がおもわずゆれた。彼女は無心に歌いつづけていたのだが………。

 今年3月広州の若い男性通訳(大学院生)は「侵略されたことはあっても、侵略したことはない、広大な国土を持、っている自負は失いたくない。将来は日本に留学して日本文学を研究したい。Jこの二人の通訳も、なぜか時々ペアで思いおこす。

 2つの旅での印象をまとめると中国は広いそして大きい。けれども48年アメリカを旅Lて感じたアメリカのそれとは全く異質の大きさである。

 飛んでるものは飛行機以外、4つ足は机以外、何んでも食べると聞く中国の胃袋は、東洋哲学や医学、孔子様に仲景師、偉大なるものを育ててきた歴史をもつ。

 私の中国の旅は、始まったばかり、哲学、仏、シルクロードえと、旅の夢は広がるばかり。思い立ったが吉日とばかり、この後も幾度でも訪れてみたいと希うこの頃である。



 <フレッシュさん紹介> 「窓  日」

                            九大病院薬剤部 家 入 一 郎

 学生時代を含めると、当薬剤部に来て7年、調剤室では5年目を迎え、がむしゃらに行う調剤業務から、囲りを見ながらおちついた調剤へ移行しつつある自分を感じる今日この頃。

 最近、服薬指導の重要性が言われ、患者さんのための調剤業務のあり方について、よく耳にする。確かに、ここ何年かで我々薬剤師の考え方か少しずつ変ってきた様な気かする。私白身も、窓ロ等で患者さんに接する時、゛どの様なことをすれば、bestなのか?≠ニいうことを考えつつ応対しているつもりであるが………。そこで、窓ロ業務と血液型について若干の考察を加えた。

 私の血液型はO型。O型の窓口業務:患者さんに対し親切で、いろいろな疑問に対し適切にお答えし、納得して帰っていただきたいと心の中で、人一倍秘めた愛情を持っている。しかし、囲りの状況により左右されやすく、例えば、非常に忙しい時など、つい我を忘れトーンが大きくなり、患者さんをまるで、叱っている様な態度を取り、後で後悔する。

 A型の窓口業務:沈着冷静に対応する。一見たのもしく感じるが、ややもすれば、冷い印象を与える。何か決ったマニュアルがないと困るタイプ。

 AB型の窓口業務:比較的親切に対応する。しかし、時として、訳のわからない行動をする。私白身の考えでは、この血液型の人の対応が一番まともな気がする。不可は無く、可から良の間。

 B型の窓口業務:私の囲わりにはいないので、良くわからない。

 以上、これはまったく私個人の考え方であって、私は違うという方かおられたら、御容赦願う。

 しかし、全体を見て言える事は、゛患者さんのために、、という意志は、何らかの 形で現われている様だ。自分のいけない点は、良い人を見てなおしたいと考える。

 話は変わるが、去年の9月、やっと息子が誕生した。今、9ヵ月であるが、2回風邪で病院に運ばれて行った。そこで、始めて赤ちゃんに薬を飲ませるのがいかに難かしいかを知った。以前は、あまり意識することは無ったが、それ以来、おかあさんから、この手の祖談を受ける時は、自分白身の経験を話すと共に、おかあさんからも、うまくいった例などを聞いて勉強している。

 やはり、薬剤師も医師同様、場数を踏んでいくことで、良き相談相手になっていくのであろう。私なんか、まだまだ・・…・。
               (S58年 九大卒)



 <フレッシュさん紹介> 「コクがあるのにキレがある」

                            九大病院薬剤部 首 藤 英 樹

 早いもので薬剤師となり4年が経過した。薬学を志してもう8年になる。毎日、単調な仕事ではあるか、自分なりに夢があり、希望がある。

 昨年9月より市薬に入会させていただき、月1〜2回の急患センターでの勤務を行っている。急患センターでは、患者さんとより近い距離で接することができ、日頃の業務では得られない゛喜び。を感じる。「患者志向の〜」という言葉を最近よく耳にするが、急患センターでの業務は、即その実践の場である。

 暑い夏、ビールのうまい季節になった。

 「コクがあるのにキレがある」

 そんな仕事がしたい。

 昭和35年エ1月29日 射手座生れ 血液型は二重人格のAB型

 これからもよろしくお願いします。(独身デス)
               (S58年 長崎大学卒)



 会務日誌

昭和62年

2月2日(月) 中央区三師金「政治を語るタベ」18:30西鉄グランドホテル(古賀、他)
  5日(水) 市衛生局訪問9:00(古賀、藤原)
        社保委員会 13:00
  5日(木) 久保田議員後援会総会 13:00国祭ホール(会員多数)
        薬局委員会 19:00
  6日(金) 急患診療出勤者懇親会 18:30福新楼(堀江、藤原)
  7日(土) 61年度第2回部会連絡協議会 16:00セントラルホテル
  9日(月) 市老人保健連絡協議会 16:00望洋荘(古賀)
  10日(火) 第3回よかトピア三師会 16:00市医師会(清水、藤原)
        広報部会 18:30
  12日(木) 学術委員会 18:30
  13日(金) 薬事講習会反省会 18:00福新楼(古賀、他)
  19日(木) 第25回学術研修会 18:30市薬会館
  20日(金) 第8回三役会 18:00
        第171回(61年度第9回)理事・監事会 19:00
  21日(土) 弟1回会館問題特別委員会 16:00
  23日(月) 南区三師会「政治を語る夕べ」18:30ステーションプラザ(古賀、他)
  27日(金) 第341回県・支部連絡協謔会 13:30
  28日(土) 三師会 18:30三光園
3月1日(日) 山崎 拓家葬儀(古賀)
  2日(月) 田中健蔵支援団体代表者の集い 13:30国際ホール(清水、藤原)
  3日(火) 第4回よかトピア三師会 16:30市医師会(清水、藤原)
  4日(水) 社保委員会 13:00
  6日(木) 吉本喜四郎先生送別会 18:30滝の茶屋(古賀、藤原)
  9日(月) 馬場勘二先生自叙伝「幾山河」 出版記念パーティー12:00都ホテル
  12日(木) 急患センター問題協議会 17:30市医師会(古賀、藤原、成沢)
        第3回支部長会 19:00
        学術委員会 18:30
  13日(金) 博多三師会「政治を語る夕べ」 18:30ステーンョンプラザ(古賀、他)
  14日(土) 県薬・支部職員研修会 14:00県薬会館
        ボランティア基金贈呈式 13:00西日本新聞社(古賀、藤原、高杉)
  15日(日) 東支部総会 12:00梅嘉(古賀、藤原)
  16日(月) 東区三師会「政治を語る夕べ」 19:00三鷹ホール(古賀、他)
  17日(火) 第5回よかトピア三師会 16:30市医師会(清水、藤原)
        広報部会
  18日(水) 久保田後援会企業団体総決起大会 14:00都久志会館(古賀、他)
  21日(木) NHK健康フェアー 10:00中央市民体育館(会員多数)
  23日(月) 第172回(61年度第10回〕理事・監事会 19:00
  25日(水) 県薬代議員会予備会議 19:O0
  26日(木) 市老人保健連絡協議会13:00(古賀)
  28日(土) 第56回福岡県薬剤師会通常代議員会 11:00県薬会館
4月1日(水) 県健康フェスティバル検討委員会 18:00県歯科医師会館(堀江)
  4日(土) 社保委員会 13:00
        急患委員会
  6日(月) 監査会 13:00 (小松、日高、古賀、堀江、藤原、三津家)
        第6回よかトピア三師会 16:3C市医師会館(藤原)
  10日(金) 学術委賢会 18:30
  12日(日) 統一地方選挙 市薬推薦議員に対する当選祝い持参(古賀、堀江、藤原、三津家、松枝)
  15日(水) 顧問会18:00(斉田、藤野、他三役)
  16日(木) 水道法34条の2厚生大臣指定申請 説明会13:30県薬会館(瀬越、藤原)
  17日(金) 第26回学術研修会 18:30市薬会館
  18日(土) 第32回福岡市学校薬剤師会定時総会 14:00(古賀)
  21日(火) 第173回(62年度第1回)理事・監事会 19:00
        第34回福岡県学校薬剤師会評議員会 13:30県薬会館
        定款改正問題について薬務諜と協議 11:00(古賀、藤原)
  24日(金) 福岡市城南保健所竣工式(古賀)
  25日(土) 第15回福岡市薬剤師会通常代議員会 13:30
  28日(火) 第342回県薬支部連絡協議会 13:30県薬会館(藤原)
        市計量協会理事会 11:00(古賀)
  30日(木) 弟7回よかトピア三師会 16:30市医師会(古賀、清水、藤原)
5月1日(金) 急患診療医薬品集第4版作成委員会 18:30(藤原)
  6日(水) 社保委員会 13:30
        広報部会 18:30
  8日(金) 第8回よかトピア三師会 16:30市医師会(古賀、清水、藤原)
        組織委員会 19:00
        薬局委員会 19:0O
        急患委員会 19:00
  9日(土) 西支部総会 15:00市薬会館(古賀)
  12日(火) 急患診療医薬品集第4版作成委員会 19:00急患センター(藤原、河野、吉本、成沢、藤下)
  13日(水  第174回(62年度第2回・j理事・監査会 19:00
  21日(木) 福岡地区薬業研修会 13:00市薬会館(堀江)
  23日(土) 広報部会 14:00
        博多支部総会 17:00 ステーションプラザ(古賀、藤原)
  27日(水) 南支部総会 19:00レストラン秋(古賀、藤原)
  28日(木) 第1回健康館推進検討委員会(アジア博)I6:00 市医師会館(古賀、清水、藤原)
  29日(金) 県商組総代会 13:00県薬会館
6月4日(木) 杜保委員会 13:00
  6日(土)  中央支部総会 18:00セントラルホテル(古賀)
  8日(月)  62年度福岡市計量協会総会 10:30市計量検査所(藤原)
  10日(水) 試験センター問題について薬務課と協議 II:00(古賀、堀江、清水、藤原、神谷、荒巻)
        医薬品集編集委員会 18:30
        組織委員会 19:00
  11日(木) 薬局委員会
  12日(金) 新任薬剤師研修会 19:00
  13日(土) 第57回県薬臨時代議員会 13:30 県薬会館
  15日(月) 県・市三師会 18:30 三光園(古賀、藤原)
  19日(金) 第2回県健康フェスティバル実行委員会 19:00県歯科医師会館(堀江)
        62年度福岡市戦没者合同追悼式13:00市民会館(清水)
  19日〜20日 62年度試験センター連絡協議会 神戸市(古賀、藤原)
  20日(土) 福岡市薬剤師会勤務部会総会 14:30武田薬品(堀江)
  22日(月) 福岡地区薬業研修会 14:00市薬会館(堀江)
  23日(火) 広報部会 17:00
        薬と健康の週間小委員会 12:00県薬会館(大久保)
  24日(水) 九宏薬品40周年記念式 11:00西鉄グランドホテル(古賀)
        第175回(62年度第3回)理事・監事会 19:00
  27日(土) 第1回三役会 15:00
        62年度第1回部会連絡協議会 16:O0セントラルホテル
  29日(月) 林 武彦県議会副議長就任披露パ一ティー 15:00 西鉄グランドホテル(古賀、藤原)
       医薬品集編集委員会 19:00 急患センター(吉本、成沢、藤下)



 お知らせ

 受賞おめでとうございます

 荒巻善之助先生厚生大臣表彰受けらる
 健康保健法施行60周年記念厚生大臣表彰が5月26日東京霞が関の厚生省で行れました。 福岡県の薬業関係者では荒巻善之助先生がその栄誉に浴されました。

 訃 報

 河野義明先生
 福岡市勤務薬剤師会名誉会長の河野義明先生が6月29日、くも膜下出血のため急逝なさいました。先生は昭和26年熊本薬学専門学校 を御卒業になり、藤沢薬品研究室を経て、昭和27年7月より九大病院薬剤部に勤務なさいました。昭和42年九大歯学部開設と同時に初 代薬剤部長の重責をつとめられ、昭和60年3月退官なさいました。

 御退官後は西九州大学教授として御活躍中でした。福岡市薬剤師会においても急患診療医薬品集編集委員長として、急患医療に御尽力なさいました。享年62才
 慎しんで御冥福をお祈り致します。

 長野長和先生
西支部友泉部会、ユアーズ薬局の長野長和先生が胃癌で闘病中でしたが、7月13日逝去なさいました。
 昭和34年長崎大学薬学部卒業、享年53才
 慎しんで御冥福をお祈り致します。



 会報の原稿を募集します

 随筆、詩、俳句など、どんなジャンルでも結構です。広く会員の方々から原稿を頂きたいと存じます。

 又、写真、絵画などに趣味をおもちの方、作品をお寄せ頂けませんか。

 皆様方からのご寄稿を心よりお待ち申し上げます。
                              (広報部)

 あとがき

 oうっとうしい梅雨も明け、入道雲、海、山と本格的な太陽の季節となりました。  o会報22号が出来上りました。

 o皆様に楽しく読んで頂くために、出来るだけ多くの方々こ執筆を依頼しました。原稿を書いて下さいました先生方、御協力ぽんとにありがとうございました。

 o原稿依頼から、編集、校正と広報部の仕事はなかなか骨がおれますが、バラバラの原稿が、それぞれの場所を得て、有機的連がり、ー冊の本に仕上っていく過程の中に、楽しさと喜びもまた感じています。

 o広報の仕事にたずさわるようになって、いろいろな会の機関誌など、今までと違った角度からも眺めるようになりました。本会の会報が楽しく、特色あるものになるよう努力したいと思っています。

 o会員の皆様、どうぞお元気で暑い夏をのりきって下さい。
                              (域戸嘉寿子)